1982年の10月16日に中国人民空軍の呉栄根上尉がミグ19=中国名J-6で山東半島・文登基地から北朝鮮経由で台湾へ亡命しました。
日本では戦闘機による亡命事件と言うと昭和51(1976)年9月6日にソ連軍のヴィクトル・ベレンコ中尉がミグ25で函館空港に強行着陸した事件くらいしか記憶にありませんが、共産党中国から台湾へは朝鮮戦争で撃墜されて捕虜になったパイロットの帰国拒否に始まり、1960年から1989年までに公表されているだけでも13回発生しています。ただし、使用した戦闘機はミグ25とは違ってJ-7=ミグ15やJ-6=ミグ17、J-7=ミグ19などの旧式機ばかりで軍事的価値はありません。
呉上尉は当局がこれまでの亡命者の動機を踏まえて「台湾在住の親族との再会を希望しているのか」と訊くと「先ず鄧麗君=テレサ・テンに会いたい」と答えたことで有名になりました。続いて呉上尉は「中国大陸には自由がない。我々は鄧麗君の歌を聴くこともできなければ録音することも禁じられている。自由世界なら誰でも自分の好きな歌を好きな時に聴くことができるのに」と答えたと言われていますが、当時の共産党中国は1979年の毛沢東主席の死によって5人組が失脚して文化大革命が終結したため「鄧小平体制に移行して改革開放路線を推進している」とされていて、1975年に死去した蒋介石総統が「遺命で息子の蒋経国総統に世襲させた台湾よりも民主化が進んでいる」と報じられていましたが、中国社会ではエリートである空軍士官がこのように考え、実行に移したことは台湾には絶好の宣伝材料、日本のマスコミは絶対に隠蔽しなければならない事実でした。
そのため台湾国防部は鄧麗君さんに面会を要請し(命令し?)、念願が叶った呉上尉は鄧さんが差し出した手を両手で固く握ってしばらく放さず、リクエストした「何日君再来」と「小城故事(邦訳名=小さな街の物語)」を唄うと「小城故事」の途中から一緒に唄い始め、歌詞カードなしで最後まで唄い切り、亡命時に述べた鄧さんへの想いが本心だったことを周囲に知らせ、盛大な拍手を受けたそうです。
「何日君再来」は日本でも戦前に渡辺はま子さんや李香蘭=山口淑子さんが唄ってヒットしましたが、実際は周拖さんが唄って空前の大ヒットになった上海制作の映画「三星伴月」の挿入歌で、1980年代初頭からは鄧さんが唄ったこの歌を中国共産党が支那事変の「坑日歌」として解禁したので爆発的なブームになり、鄧さんの知名度を一気に高めることになりました。ところが台湾当局が鄧さんの歌を大陸への宣撫工作に利用したため聴取が禁止され、ファンは地下に潜ることになったのです。
一方、「小城故事」は1970年代の台湾を始めとするアジア圏での大ヒット曲ですが、日本ではアジアの大スターである鄧さんをアグネス・チャンちゃんの二番煎じの輸入アイドルとして売り出した上、1979年には国交がないため制約が多い台湾の渡航許可証ではなくインドネシアのパスポートで入国しようとしたことを旅券法違反として国外退去にしたため全く知られていません。野僧は沖縄で仲良くしていた台湾人の女の子に教えてもらいましたが、カラオケはありませんでした。
- 2022/10/15(土) 13:52:32|
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