2003年の明日10月19日は各省庁の苦情処理係を寄せ集めて設置された環境庁の三流官僚たちにマスコミ受けする政策手法を教えて立場と能力を勘違いさせた初代・大石武一長官の命日です。医学博士だけに94歳の長命でした。
大石長官は明治42(1909)年に現在の仙台市民会館付近で政友会院外団員、仙台市会議員、後に衆議院議員になる父親の長男として生れました。仙台男子師範学校付属小学校から旧制・宮城県立第2中学校、旧制・第2高等学校に進学しますが、中学校では庭球、高校では野球に熱中したものの結核性の肋膜炎と腹膜炎を患って留年しています。大学は父親の強い勧めで東北帝国大学医学部に入学して昭和10(1935)年に卒業、昭和15(1940)年には同大学院医学博士課程を修了しました。
戦中戦後は仙台の大学の付属病院や国立病院で勤務しますが、昭和23(1948)年に第1次吉田内閣の農林政務次官だった父親が病床に大石長官を呼び、「立派な政治家になって私のやり残した仕事を仕上げろ」と告げて2時間後に死亡したため、孝行息子の大石長官は幼い頃から動植物が好きで植物学者志望だった自分に医学部進学を強要しておきながら次なる方向転換を遺命にする横暴にも服従して父親の死亡に伴う補欠選挙に立候補して当選しました。
自由民主党では憲法改定や再軍備を公言する鷹派の中曽根派に所属しましたが、大石長官自身は自然保護や軍縮、平和問題に意欲を見せる鳩派と目され、1960年代の高度経済成長で戦前から始まっていた環境汚染が急速に進み,ヘドロの海と光化学スモッグが日本の国土を覆い始めて国民の環境問題に対する危機感が最高潮になっていた昭和46(1971)年7月1日に環境庁が設立されると第3次佐藤栄作改造内閣で初代環境庁長官に指名されました。就任後は原因が特定されても症例の分析と研究が進んでおらず公害被害者としての認定が遅れていた有機水銀に汚染された水俣湾の魚貝類による「水俣病」、カドミウムによる「イタイイタイ病」、大気中の亜硫酸ガスによる「四日市喘息」、同じく新潟県阿賀野川流域の有機水銀に汚染された水稲による「第2水俣病」の患者を「疑わしきは認定する」と大幅に救済したことで世直し大明神の如く崇め祀られ、さらに観光客の激増と日本海側と太平洋側を結ぶ新たな幹線道路として建設が決定していた尾瀬湿原の自動車道計画を中止させるなど自民党の政治家としては異例の活躍を見せためマスコミに「公害対策・環境保護の救世主」と賞賛されたのです。
しかし、三木武夫内閣で農林大臣に就任したものの昭和51(1976)年の衆議院選挙で落選、翌年の参議院選挙では当選しました。ところが昭和53(1978)年に自民党を離党して新自由クラブから参議院選挙に臨みましたが再び落選して政界を引退しました。以降は晩年まで環境団体で主に大規模公共事業の反対運動に情熱を燃やしていました(野僧も熊本県の川辺川ダムや岐阜県の長良川河口堰の反対運動で現地に来たのをテレビで見たことがあります)。何にしても今ではヨーロッパの環境団体の国営日本支部になっている環境庁=環境省を国民が過大評価し、過剰に期待させることになった元凶でしょう。
- 2022/10/18(火) 13:11:15|
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