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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月20日・北海道名寄の映画館・第1電気館が閉館した。

2014年の明日10月20日に1939年の冬戦争でフィンランド軍がソ連軍機甲部隊を撃破したモッティ戦術を日本で再現する最精鋭部隊・第3普通科連隊が駐屯する北海道名寄市で唯一の映画館だった第1電気館が閉館しました。
名寄市は旭川市の北、稚内市の南に位置しますが、広大な北海道だけに道北最大の都会・旭川市まで列車で1時間以上かかり気軽に映画を見に行ける距離ではありません。
そんな名寄市民と自衛官にとって数少ない娯楽施設(第3普通科連隊所属だった愚息1も「ハート・ロッカー」を見たそうです)だった第1電気館は名寄駅前のアカシア通りを右=北方向に進み、5丁目の角を左折して350メートルほど歩いたところにあり(すでに取り壊されている)、150席前後の小規模な映画館でしたが閉館当時に名寄市の人口は3万人を切ったのでこれでも中々満席にならなかったのかも知れません。
日本の常設映画館は明治36(1903)年に東京浅草の電気館が最初とされています。それまでも演芸場などで臨時に上映することがあったので「○○座」や「××劇場」と言う映画館の名称はその名残です。もっとも大規模な映画館では客の入れ替えに時間がかかるため映画と映画の間にいわゆる幕間としてステージで歌手の歌謡ショーや演芸などを上演していたので劇場でもありました。確かに昔の映画館にはスクリーンの前にステージがありました(公開初日に関係者が挨拶するのにも使う)。
日本の映画館は戦時下になると子供向けのアニメ映画まで戦意高揚を目的にした戦争映画ばかりを上映することになりましたが、他に娯楽がなかったため敗戦時にも全国で空襲を免れた845館が残っていました。昭和21(1946)年に外国映画の輸入が再開されると娯楽に飢えていた国民が映画館に殺到し、昭和30年(1955)には5184館、昭和31(1956)年は6123館、昭和32(1957)年は6865館、昭和33(1958)年は7067館、昭和34(1959)年は7400館と2年で1000桁が1つ上がる規模で急増しましたが、日本映画が左翼映画人による娯楽性を無視した亡国・売国の偏向作品に堕ちた上、あらたなレジャーが普及し始めたこともあり昭和35(1960)年の7457館をピークにして減少に転じました。
それでも敗戦後の15年間で娯楽として映画が根づいていたので現象の速度は比較的緩やかで、野僧が在学中は人口8万人の蒲郡市内にも映画館があり入学時の春休みには独身の熟女教師が教室でアフリカ系の生徒にレイプされ、性交の快楽に溺れる「さよならミス・ワイスコフ」が上映されていました(高校の教員が人種差別の映画として推薦した)。
その後、さらなる娯楽の多様化やレンタル・ビデオの普及によって映画館の減少が進みましたが1993年の1734館を下限として上昇に向かい、2010年には3412館、2015年は3437館と昭和45(1970)年前後の水準に戻しています。ただし、現在はスクリーン数なので必ずしも映画館の建物の数ではありません。
やはりインターネットの普及で映画を気楽に視聴できるようになったことで逆に大画面、大音響での映画の醍醐味を鑑賞・堪能する本質的魅力に目覚めたのかも知れません。
  1. 2022/10/19(水) 14:23:02|
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