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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月21日・沖縄では悪評しかない泉守紀知事の命日

昭和59(1984)年の明日10月21日は沖縄戦で県民と運命を共にした島田叡知事とは反対に「全て泉が悪い」と言う口汚い批判しか聞かない泉守紀(しゅき)沖縄県知事の命日です。当時としては(憎まれっ子)世にはばかった86歳でした。
泉知事は明治31(1898)年に現在の山梨県大月市(三遊亭小遊左師匠の出身地)で教育者の3男として生れました。父親の赴任先だった鹿児島県の旧制第7高等学校から東京帝国大学法学部に進学し、大正12(1923)年に卒業して内務省に入省しました。内務省では青森県庁を初任地にしてその後は全国各地の警察畑を巡り歩き、入省から20年が経過して北海道庁内政部長の職にあった昭和18(1943)年7月に沖縄県知事の辞令が届き、7月26日に着任しました。
官選の沖縄県知事は江戸時代に琉球王国を支配していた元島津藩士だった初代の大迫貞清知事が従属国扱いして以降、県民を日本人=同胞とは見ないで侮蔑し、独自の伝統文化を江戸時代の日本よりも遅れた過去の遺物として否定して、中央から命じられ予算を与えられている近代化も県民の反発を口実にして手を着けずに半世紀が経過していました。
ところが泉知事は着任早々沖縄の文化や歴史の勉強を始め、離島を含む現地視察を繰り返すなどの積極姿勢で多くの県民に好感を与えたのですが、沖縄の旧家では中国式に便所で豚を飼い、人間の糞尿を餌にしているのを見て嫌悪感を抱くと一転して「沖縄は遅れている」「だから沖縄は駄目だ」と公言するようになったのです。さらに仕事に厳格な泉知事が沖縄出身の職員が酒の臭いをさせて出勤するのを許さなかったことなどへの反発から県庁内での悪評も広まって評判は地に墜ちました。このため着任して半年で転属を念願するようになり、大蔵官僚だった実兄に人事工作を依頼し、1年半の在任期間中に9回出張して3分の1の時間=半年間を県外で過ごしています(戦時中なので用件は有ったはず)。
さらに昭和19(1944)年7月にマリアナ諸島サイパン島がアメリカ軍の手に落ち、フィリピンにも迫って沖縄への脅威が高まってくると第32軍は県民の本土疎開を沖縄県に要請=命令しましたが、8月22日に那覇国民学校の児童と介添者を乗せた対馬丸が奄美諸島沖でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されて1484人が犠牲になると県民を説得することなく難色を示すようになり、県民の大半が沖縄本島に残ったまま激戦に巻き込まれ、多くが犠牲になった責任も指摘されています(疎開を拒否したのは沖縄県民)。
そして昭和19(1944)年10月10日にアメリカ機動艦隊による大空襲を受けると県庁や県警本部に登庁することなく官舎の防空壕に籠り、10日夜には地上部隊が上陸してくることを懸念して県庁機能を防空壕施設が充実している普天間の中頭地区地方事務所に移転することを決定して実際に移動したため沖縄県が空襲被害の復興を放棄したような印象を県民に与えました(実際は不便ながら事業は進めていた)。
結局、昭和20(1945)年1月12日に香川県知事への転出が発令されますが、これも敵前逃亡との事実無根の批判を浴びせられています。実際は「第32軍との対立で陸軍から内務省に交代人事の圧力が加わった」と言うのが真相のようです。
  1. 2022/10/20(木) 15:15:33|
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