「父が貴方と話し合いたいことがあるそうなの」梢が末期の膵臓癌と診断された父の介護のため沖縄へ帰国って2カ月が経ったある日、久しぶりに電話を掛けてきた。これまでも休日を含めて毎日の葉書とメールは欠かさなかったが最近は強くなった鎮痛剤の影響で意識を失っている時間が長くなり、医師からは「遠からず会話が成り立たなくなると言われている」と聞いている。おそらく梢の父は死ぬ前に「今後の2人の関係をどう考えているのか」を私の口から聞きたいのだろう。私も梢に伝言を頼んだ感謝の言葉を直接伝えたい気持ちは日に日に高まってきている。私は現在、ウクライナ国内の司法裁判所で審理しているロシア軍による戦争犯罪の裁判に特別検事として不定期に派遣されているが、次の裁判はロシア軍に協力したロシア系ウクライナ人の国家に対する背信行為が起訴事由のため出番はなさそうだ。そのためハリム・カサド・カマド・ハーン首席検察官からも「今の内に休暇を取れ」と言われている。
「そうか、ワシもお父さんに会いたいから飛行機が取れ次第行くことにしよう」「私からオランダのツーリストの友達に電話しておくから貴方の都合と希望を説明してね。彼女は英語で大丈夫よ」私の返事に梢は安堵したように説明した。以前であれば愛知の父親の死に立ち会っていない私を自分の父のために呼ぶことを遠慮したかも知れないが、今では一心同体の連れ合いとして人生を共有しているので至極当然な展開なのだ。
「そうなると納豆作りは中止した方が良いかな。帰ってくる時、ワンパック買ってくれば再開できるだろう」唐突に生活臭が染みた話題になった。私たちは茶山元3佐夫妻の尽力で納豆菌を入手して以来、自家製納豆を作り続けているが、私が日本に行けば不在にしている間に菌が死滅する可能性が高い。梢が不在になってしばらくは台所に立つ意欲が湧かず、朝食はトーストとコンソメ・スープに納豆の手抜きで昼夜は外食していた。それでも次第に血糖値が上昇してきたため夕食は自炊の和食にしている。と言っても食材を買いに行く時間がないので自家製の納豆が大いに役立っている。梢の栄養価計算では納豆は小鉢1杯で1食分になるらしいが、私は昔から生卵に入れるのが好みなので、「このチャンスを逃す手はない」とこればかりを食べている。冬に路面が凍結して走れなくなるまでの夕食としてなら許容範囲のはずだ。
「ダッチ・ツーリスト、スフラーフェン・ハーグ支店のカッシュ・モシースです」翌日の昼休みに職場の固定電話ではなくスマートホンに梢が言っていたオランダの旅行社の友人から電話が入った。私たちよりも若い40歳代後半くらいのベテランらしい。
「先ほどコズエから電話がありまして、今回はアムステルダムから日本への航空券を手配させていただけるそうですね」「はい、行きの1人分をお願いします」モシースと名乗った女性は梢から概略を聞いているようで「イエス、イエス」と英語で相槌を打った。
「コズエが日本に行く時にも説明したのですが、我が国では日本は現在、紛争当事国に準ずる扱いになっておりまして、KLMの直行便は公務以外の搭乗を受けつけていません」「現在は他国からの武力行使を受けていないし、治安状態もかなり沈静化しているように聞いているがね。だから梢を帰省させたんだ・・・と貴女に言われても困るだけですな」「はい、国家が決めていることですから私共では・・・」モシースは言葉を濁した。オランダは立憲君主制なので戦前の日本ほどではないにしても国家の決定は国王の意志と言う感覚があり、批判することには多少なりとも躊躇が働くらしい。
「その公務と言うのは公務員や公的機関の民間人が請け負っている公式業務を指すんですか」「いいえ、私的な旅行や訪問を除く業務全般を意味します。民間企業でも業務上の出張であれば大丈夫です」「なるほど大変ですね」私も自衛隊時代の阪神淡路大震災や東北地区太平洋沖大地震の災害派遣では現地の実情に合致しない東京の意向に多大な制約を受けた経験があるので、判断基準が判らないオランダ政府の決定に従わざるを得ない旅行社の立場に同情してしまった。それにしてもここまで緩い基準であれば抜け道は幾らでも見つかりそうだ。
「それじゃあリリジョニスト(宗教者)が危篤の患者の最期を看取り、葬儀に参列するのは業務になるでしょう」「確かに尊いお仕事です」思いのほか簡単にモシースは同意した。日本の現状が紛争当事国に準ずるのであれば現地調査の出張命令を出すことも可能だが、流石の私も国際刑事裁判所でのカラ出張は避けたのだ。
「ならばブディズム(佛教)のボンズが沖縄の危篤状態にある患者を看取るため日本へ行くと言う名目で直行便を手配して下さい」「直行便はナリタ(成田)行きしかありませんが」「乗り継ぎはお願いできませんか」「日本の国内線はこちらでは・・・」日本人の旅行には全て旅行社が手配して渡されたチケットで移動する感覚があるが、欧米からの観光客は来日すると勝手気ままな旅を満喫していた。あれも日本式の特殊な行動形態だったようだ。
- 2022/10/22(土) 13:51:53|
- 夜の連続小説9
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