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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

続・振り向けばイエスタディ285

翌日、モチースは私の職場まで航空券を届けてくれた。やはり40歳代半ばくらいの金髪女性だったが、接客業の割には度が強そうな黒ぶちメガネを掛けた小太りで、化粧っ気もなく常に美貌を保っていた梢とは全く印象が違った。それでも成田空港への直行便に搭乗することになり、私は「僧侶としての業務」を演じるため作務衣に威儀細を掛けてアムステルダム空港に向かった。本当は略法衣にするべきだが機内食で肉や魚が出ると日本人の乗客に「生臭坊主」と思われるので最近は伝統工芸の職人の制服になっている作務衣にしたのだ。
「機体のトラブルにより出発が遅れまして大変ご迷惑をおかけしました。予定より1時間遅れの午後9時15分発の日本国成田空港行きKLM321便に搭乗されるお客さまにご案内申し上げます。当機は間もなく搭乗開始になります。3番出発口にて担当者の案内をお待ち下さい。アテンション・プリーズ・・・」搭乗ロビーでは最初に日本語のアナウンスが入った。確かに多くはない乗客の過半数は一見して日本人だ。飛行前点検で不具合が見つかって再点検していたようで1時間遅れになった。以前、KLMは日本への直行便にはボーイング777などの大型機を使用していたが、日本が紛争当事国に準ずる指定を受けて観光などが禁止されると1日1便にしても搭乗者数が減少し、現在は中型のA330に変更している。モチースの説明では「このままではビジネス・ジェットになるかも知れない」とのことだったが、日本からの出国便の利用者はそれなりなのでこの機体を維持しているらしい。
「成田までは15時間50分だから到着するのは0105(1時5分)、それで時差が8時間だから朝の9時5分か。それで羽田までの移動時間が・・・」日本人の乗客は国民性を発揮して案内の女性の後ろを小学生のように列を作ってついていく。私は最後尾を歩きながら苦手な数字と格闘していた。結局、日本での航空券はオランダでは手配してもらえず、梢に頼んでも郵送では間に合わず、成田空港にある航空会社の窓口で当日券を購入することにしたのだ。
「後ろか、トイレが近いから便利だな」機内では一応とは言え新型コロナ・ウィルスの感染予防対策を取っているようで乗客は1人ずつ窓際の席に配置されていた。私は何故か後方の席だった。縁起でもないが旅客機の墜落事故では離着陸時に速度を失うと揚力を確保するために機体を引き起こすので後尾から地上に激突する。一方、上空から急降下すると機首から地面に突っ込む。このため数少ない生存者の座席の位置は両端になることが多い。ついでに不時着となると中央の非常口から主翼に避難できても飛び降りるにはあまりにも高く、主翼内の燃料が発火するか否かで生死が分かれる。やはり前後部の扉から滑り台で逃げる方が賢明だ。
「ビールはいかがですか。冷えたハイネッケンは美味しいですよ」アムステルダム空港は海沿いなのでKLMは離陸するとそのままデンマークの領空に入った。これから北極回りで成田に向かう。安定飛行に入った機内では同じEUに加盟しているデンマークの領空を通過中でも関税が免除されるらしくアルコホールのサービスが始まった。アメリカの航空会社では接客と語学力の熟練度を重視するため若くて美人揃いの日本の航空会社では考えられない超熟女の客室乗務員が勤務しているが、観光立国のヨーロッパでは両方を並立させて綺麗なベテランが多いようだ。それにしても国際慣習として聖職者にアルコールを勧めないものだが、私にはホステスのように誘ってきた。やはりヨーロッパ人には白の襦袢の上に作務衣を着て威儀細を掛けていても佛教僧=宗教者には見えないようだ。それを好いことに私は布施を断れない佛戒を保って1本もらった。実は久居で勤務している頃、坊主の真似ごとで托鉢していて婆さんに「坊さんも暑いやう」と言って頭鉢に冷えたビールを注がれたことがある。私は「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」と「布施を断れない戒」にかけた公案と受け取って「南無阿弥陀佛」と念佛を唱えながら飲み干したが(破戒を許す阿弥陀信仰を表現した)、このそれなりに若くて綺麗な客室乗務員は単なる認識不足だろう。これが1人だけ乗務している日本人のクルーなら「破戒僧」と馬鹿にされたことを疑わなければならない。
「梢と再会したら先ず抱き締めてさば折り、熱烈なキスで窒息・・・そうか、お父さんの介護中だったっけ」ビールに続いて勧められるままにアルコホールを飲んだ私はホロ酔い加減で眠りについた。飛行機での海外旅行では時差解消のために熟睡するのが常識なのだ。
「乗客の皆さまに緊急事態を案内します」心地よく梢の夢を見ていると機長の機内アナウンスで起こされた。暗くしてあった機内の照明は通常の状態に戻っていて通路の所々に緊張した表情の客室乗務員が配置されていた。朝食の準備が始まるまで乗務員席で交代で仮眠していたようで化粧をせずに髪が乱れたままの人もいる。
「当機はシベリア東部上空を通過中ですが、9分前にロシア軍の戦闘機に捕捉されて只今、強制着陸を命じられました」機長の英語の説明の声は緊張でやや上擦っていた。
  1. 2022/10/23(日) 15:36:37|
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