「ロシア軍側は当機のフライトプラン(飛行計画)は受理していないと理由を説明しています」私は機長の説明を聞きながら窓から外を見るとすでに夜は明けていて抜けるような青い空が広がっていた。眼下には説明通りにシベリアの黒に近い深い青色の森林が果てしない大地を覆っている。続いて視線を後ろに移すと青い空に黒い点が目に入った。その点は白い線を引いているので航空機、つまり機長が言うロシア軍の要撃機のようだ。国際法の規定では領空侵犯した要撃対象機を強制着陸させる時には国際航空周波数での無線や発光信号による通告の後、1機が前方に出て左右の主翼を上下させて右に旋回することになっている。こちらの1機は逃走防止のため後方から監視に当たっているようだ。
「しかし、私はKLMの担当者が作成したフライトプランを確認しており、オランダ運輸当局が受理したからこのフライトをアサイン(任務付与)されたのです。オランダ運輸当局がロシアを含む上空通過国に対して通知するのは当然の手順であり・・・」機長はかなり言い訳がましい人物のようで乗客への説明が弁明になっている。それを聞いている私は非常に気になったことがあって一番近い位置に立っている客室乗務員を手招きした。
「お客さま、お呼びでしょうか」先ほどから変に私を気にしている様子だった30歳代の客室乗務員は慎重に歩み寄ると顔を近づけて低く声をかけた。この態度には「会話を他の乗客に聞かせたくない」と言う配慮があるようだ。実は私は航空自衛隊時代、空港で見送る梢の希望で制服を着て帰省していたのだが、搭乗した全日空機が上空で右エンジンの火災警報装置が点灯して那覇空港に緊急着陸したことがあった。その時、「これは落ちるな」と悪い軽口を呟くと後ろの席の女性客が悲鳴を上げて騒ぎ始めたので「大丈夫、このL1011トライスターは今まで1機も墜落していない傑作機だ。エンジンは1基でも動いていれば安全に飛べるようになっている」と説明した。すると客室乗務員が「今の説明を機内アナウンスでもう一度お願いします」と頼んだので「航空自衛隊第83航空隊の航空機整備員」と名乗って説明することになった(実話)。仮に頭を剃って作務衣を着た人間を坊主と理解する乗客がいれば「往生決定」「生者必滅」などの迂闊な発言でパニックになる惧れは無きにしも有らずだ。
「機長は弁明に夢中になっているようだがロシア軍機の命令に従っているのか。こちらも翼を振って従う意思を提示しなければ次は射撃だぞ」客室乗務員は予想外の質問に呆気にとられたが私はコクピットに確認するように促した。すると客室乗務員はポケットに入れていた機内用小型無線機で操縦室のドアの前に立っている男性のチーフに連絡した。チーフは客室を向いたままドアの横の電話機と取ると何かを話し始めた。
「お客さまに申し上げます。ロシア側の命令は極めて不当ではありますが、他国の領空内では相手国の軍の命令に従わざるを得ず、当機は強制着陸に応じることにします。今後はロシア軍戦闘機の誘導を受けていずれかの基地に着陸することになるでしょう」案の定、機長は意思表示を怠っていたようだ。機内放送の最後に機長は「大きく揺れます」と注意喚起してから左右の翼を上下させて命令に従う意思表示の機体信号を送り、ユックリ旋回した。
「お客さまは航空法規にとても詳しいのですね」「うん、色々あってね」客室乗務員は相変わらず私を宗教者としては認識していないようだが正体不明の不可解な人物として興味を持ったようで、用件が終わっても私の横に立って話の続きを待っているようだった。こうなると航空自衛隊時代の知識を披露したくなる。これでは必要な対応を忘れて弁明に夢中になっていた機長と大差ないが幼い頃からの慢性的な病気なので仕方ない。
「ロシア空軍は前身のソ連軍時代の1978年4月20日には老朽化した航法機材の故障に気づかずに領空侵犯した大韓航空のボーイング707を旅客機と確認していながら撃墜命令を出している。実際はパイロットの厚意で警告射撃と無線で警告を実施したんだが、大韓航空機が無視したから空対空ミサイルで撃墜されてコラ半島のイマンダラ湖の凍った湖面に不時着したんだ」これは私が高校2年の事件だが、モスクワ放送と家で購読していたA日新聞が「大韓航空機スパイ説」を主張していることに興味を持って研究したのでかなり詳しくなった。
「さらに1983年9月1日には空路R(ロメオ)20を逸脱した大韓航空の747がカムチャッカ半島上空を通過してサハリンに迫ったんだ。この時も戦闘機は大韓航空の室内灯が漏れる窓の数から「大型旅客機だ」と報告していたが極東軍管区防空指令部は撃墜命令を下した。今はロシアが国際連合常任理事国を引き継いだと言っても国際秩序を守る気は更々ないことは現状を見れば判るだろう」「お客さまの職業は・・・よろしければ個人的に教えて下さい」客室乗務員は持ち場に戻らなければならないらしくさらに顔を近づけたが、実はそれは機長の機内放送が始まって以降、私が真剣に思案している問題だった。
- 2022/10/24(月) 15:11:35|
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