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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月25日・原爆の子・佐々木禎子の命日

原爆投下=敗戦から10年が経過した昭和30(1955)年の明日10月25日午前9時57分に広島市の平和公園とアメリカ・シアトルのピース・ガーデンにある広島は両手で頭上に、シアトルは差し出した右手に千羽鶴を掲げる原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子(さだこ)さんが亡くなりました。12歳でした。
禎子さんは昭和18(1943)年1月に広島市楠木町(現在の広島市西区)の商店で生まれました。「禎子」は両親が「元気に育つ名前を」と店の客の姓名判断の先生に頼んでつけてもらったそうです。
昭和20(1945)年8月6日の原爆投下の時は2歳7ヶ月で、爆心から1・6キロの自宅の中にいて爆風で家の外まで吹き飛ばされましたが外傷は負いませんでした。それでも母に背負われて避難する時、降り出した放射能を帯びた「黒い雨」を浴びています。
避難所で母は体調不良を訴えましたが、幼い禎子さんは不快な様子を見せることなく過ごし、敗戦後は健康に快活に育っていきました。特に運動神経は抜群で中でも足が早く小学校に入ってからは徒競争とクラス対抗リレーの花形で、「中学校の体育の先生になる」と将来の夢を語るようになりました。
そんな昭和29(1954)年=6年生の運動会が終わった11月になると突然、身体に異常が起こり始め、11月下旬に風邪をひくと首や耳の後ろにシコリができたのです。シコリは徐々に大きくなり、おたふく風邪のように顔が腫れてひかないため年明けに近所の細川小児科医院に掛かりましたが症状は改善しませんでした。さらに1月中旬からは左足に紫色の斑点が現れ、1月18日と2月16日に原爆傷害調査委員会(現在の放射線影響研究所)で検査を受けました。実は禎子さんは昭和29(1954)年の夏休みにも被爆者の健康診断を受けていて結果は「異常なし」だったため、主治医を含む周囲は放射能障害の可能性を思考から除外していたようです。
しかし、2月18日に検査結果を説明する主治医からは「亜急性リンパ腺白血病」の病名と「あと3ヶ月、長くても1年はもたない」との余命を宣告され、2月21日に広島赤十字病院に入院しました。
禎子さんの発症と入院、闘病がラジオや少年誌で「悲劇の原爆被害者」として取り上げられると小中学高校での反戦反核平和=反米教育の教材になって多くの児童・生徒に知られるようなり(野僧も小学校で習いました)、そんな名古屋市の高校生が折った折り鶴が見舞い品として届いたのです。それを見た禎子さんは千羽鶴の意味を教えられると「1000羽折れば元気になれる」と信じるようになり、内服薬の正方形の包み紙で折り始めました。その懸命な姿に共感した他の入院患者も協力して8月下旬には千羽鶴が完成しましたが、症状は改善せず、禎子さんは「もう千羽折る」と言って作業を継続したのでした。
しかし、10月25日の朝に危篤状態に陥り、父から「何か食べたいものはないか」と訊かれると「お茶漬けが食べたい」と答えたため家族が用意したお茶漬けと沢庵を2口ほど食べて「お父ちゃん、お母ちゃん、みんな有り難う」と呟いて息を引き取ったのです。
  1. 2022/10/24(月) 15:13:18|
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