「この飛行機には危篤状態に陥った信者の最期を看取って葬儀を執り行う坊主として乗ってるんだよな」私が「後で」と回答を先延ばしにすると客室乗務員は目に困惑と不満の色を過ぎらせて元の定位置に戻っていった。その背中を見送りながら私は先ほどからの思案を再開した。それにしてもこちらが少し顔を前に出せば唇が触れる距離まで顔を近づけるのは無防備に過ぎるだろう。ヨーロッパでも酒と同じように宗教者への異性の誘惑はご法度のはずだ。
「ロシア軍はワシがウクライナの裁判に検事として参加していることをどこまで把握しているのか・・・」これが思案している問題だった。仮に今回の強制着陸が領空侵犯に対する警察行動だとすれば国際航空条約や戦争法の捜査対象は機長と副操縦士の2人だけで乗客は文民として保護される。実際、1978年4月20日の大韓航空機撃墜事件でも機長と副操縦士は取り調べを受けたが、当時は操縦室に乗務していた飛行整備士(=フライト・エンジニア)と航法士(=ナビゲーター)、乗客と客室乗務員は4月23日には出発地のフランスに送還されている。しかし、私の場合、ウクライナの法廷でロシア軍の戦争犯罪を追求して次々に有罪判決を獲得しているのでロシア軍にとっては憎むべき仇敵であり、飛んで火に入った夏の虫なのだ。ここがEU圏内であれば私が司法上の敵対者であってもそれが正当な公務であれば身分保障に何の影響も及ぶことはなく、批判には堂々と反論する機会が与えられるはずだが、ロシアでは国際法や国際常識が機能しないことはハリム・カサド・カマド・ハーン首席検察官の特別命令で現地調査に入ったウクライナで経験している。私はロシアが国際禁止条約を批准していないとは言え住宅地や郊外の子供の活動地域に仕掛けた対人地雷やブービー・トラップを何度も目撃して自ら撤去している。また市街地で狙撃を受けたが、それも元普通科職種の士官としての戦闘本能が銃口の発火炎に反応して即座に「その場に伏せ」の姿勢を取ったから回避できたが、あれがベルギーの法学者に過ぎないミジェル・ド・リミッド次席検査官であれば頭部に貫通銃創を負って即死していた。しかし、あの時、私は陸上自衛隊の迷彩服を着て防弾チョッキを身につけていたが、多くの戦場カメラマンも似たような服装だった。鉄帽は迷彩カバーを外し、黒く塗って前側には白く目立つように国際刑事裁判所の徽章を描いていた。迷彩服も両襟の2等陸佐の階級章は外して日本の検察官の徽章を装着していたのでサンクトペテルブルク条約などの戦争法では非戦闘員=文民だった。
「そうなるとこのまま坊主で通した方が安全そうだが、ロシアの場合は隠蔽したことがバレるとスパイ扱いされるからな。おまけに元自衛官となると完璧だ」これは中国にも言えることだが、どちらも日本国内では好き勝手に諜報活動を行い、工作員を送り込むだけでなく日本人を手懐けて数多くの売国奴を養成していながら外交関係が悪化すると企業の現地駐在員だけでなくウィーン条約で合法的な情報収集活動が認められている外交官までもスパイとして身柄を拘束する違法行為を繰り返している。ならば元自衛官、国際刑事裁判所の検察官として多くの国際紛争に直接関与してきた上、二重の職業を持つ私などは最適の配役だ。
「スパイとなると死刑か・・・シベリア抑留は御免だな。その前の拷問はもっと嫌だ」頭の中で思考は悪い方向へ進み始めた。第2次世界大戦後、ベルリンを占領したソ連軍は多くのナチス・ドイツの軍人を拘束したが根拠もなくスパイと疑うと人体実験を兼ねた自白剤の投与や過酷な拷問によって情報を聞き出そうとした。しかし、日本人には祖父の世代が体験したシベリア抑留の地獄の方が現実的だ。零下40度の酷寒の中、窓から見える果てしなく深い森の巨木を人力で切って、運ぶ悲惨な自分の姿が目に浮かんで背筋が凍りつく思いがした。
スパイは戦争法が定める戦闘員としての4条件に背くだけでなく、その活動の結果、敵対国に多大な犠牲を強いるため戦争犯罪を体現する存在として保護対象から除外されてきたが、現在は人道関係の国際条約で最低限の保護は与えられている。それでもスパイは存在そのものが戸籍などとは別の虚構の人格なので敵や所属する組織=国家が抹殺しても警察などの法的処理を受けることなく処理されると見る方が常識的だ。
「やはり下手に疑われるよりも公的な身分を明かした方が良さそうだな。坊主の方は副業だけど本物と言うことで通そう」見ているだけで陰鬱になる森林から目を反らして青い空を見上げながら私は結論を出した。日本政府を当てにできない私には国際刑事裁判所が所在地なのだ。
「お客さま、私はKLMオランダ航空でキャビンアテンダントとして勤務しております小森希恵と申します。実はオランダのニュースでお客さまの顔をお見受けしたことがありまして」「はい、国際刑事裁判所の次席検察官のモリヤニンジンです。本物の坊主でもあります」その時、通路での配置を解かれた客室乗務員たちが朝食の準備を始め、先ほど話した彼女から何かを言われていた日本人の客室乗務員が歩み寄って日本語で声をかけた。こちらも若くて綺麗だ。
- 2022/10/25(火) 15:33:42|
- 夜の連続小説9
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