「お客さまにお願い申し上げます。ロシア軍から座席の窓を閉めるように指示がありました。戦闘機が接近して確認するそうです。閉めた後は安全ベルトを装着して下さい。ご協力をお願いします」KLM321便が次第に高度を下げて青みがかった黒一色に見えていたシベリアの大地が緑の樹木を識別できるようになった時、先ほど小森希恵と自己紹介した日本人の客室乗務員が日本語と英語、多分、オランダ語で案内した。
「いよいよ着陸かァ」乗客の大半は日本人なので乗務員の指示は業務命令として素直に従って窓のプラスチック製のシャッターを下げたが、一部のヨーロッパ人が質問している声が聞こえてきた。実は私も「接近して確認する」と言うロシア軍の戦闘機を見てみたいのだが民間機でも構わず撃墜した重犯の前科を持つ相手だけに余計なことは止めておいた。
「どこの基地かな・・・ベレンコ中尉が発進したのはチェクエフカ基地だったよな・・・あそこは戦闘機用だから旅客機を下しても対応できるとは思えないな」窓が閉まってしまうと本を読むか、考え事くらいしかすることがなくなるので私は後者を選んだ。幸い昨夜の寝酒の酔いは残っていない。10時間以上眠っていたのだから当然ではある。私は元航空自衛隊時代、仮想敵国・ソビエト連邦空軍の研究に励み、防衛大学校出身の整備小隊長を説明責めにして極東地区の基地を調べさせた。そこまで手を煩わせた以上、全て暗記することになった。その後、航空教育隊に転属して研究を継続しようと思ったのだが高度な質問は禁止され、自分で調べようとしてもソビエト連邦軍関係の専門書はどこにも存在しなかった。ところが陸上幕僚監部法務官室勤務になると海上と航空幕僚監理部の法務幹部や自衛隊情報保全隊と親密に交流するようになったため情報を更新することができた。その記憶を呼び起こすことにした。
「先ずチェルニゴフカ基地はヘリ部隊だったな、それでもスホーイ25も配備されているからジェット用滑走路はあるはずだ。ウグロヴェオ基地はスホーイ27が25機程度、コムソモリスク・ナ・アムーレ基地はスホーイ27が50機以上だったから外国人に見せることはないだろう」それは「我々を釈放するなら」と言う前提が付く。このままシベリアに抑留され、第2次世界大戦後の日本軍の将兵たちのように飢餓と酷寒で皆殺しにされれば秘密保全の必要はない。それにしても戦争終結後に戦争犯罪者ではない日本兵を長期抑留し、劣悪な生活環境と過酷な強制労働によって多くを殺害したソビエト連邦の罪をロシアが繰り返す可能性を否定できないところが恐ろしい。実際、ロシア政府はウクライナ紛争で拘束した捕虜を収容している施設の所在地は公表しておらず、「シベリアに抑留して厳寒期に凍死させたのではないか」と言う疑惑がウクライナの司法当局でも広まっている。そのためロシア軍の捕虜に情報提供による戦争犯罪の軽減の司法取引を持ち掛けているが、「女性の捕虜が集団レイプの上、慰安婦にされている」との証言はあっても現地軍の将兵は何も知らないようだ。
「それでベレンコ中尉のチェクエフカはミグ31、ここはミグ専用かな」今まで気づかなかったが他の基地はスホーイ・シリーズだが、この基地だけはミグ・シリーズだ。その理由も元航空自衛隊なら推理できる。要するにスホーイとミグはソビエト連邦時代には国営だったにも関わらず部品や整備機材の互換性や共通性に欠けているのだ。防府で「お前は2曹にはしない。幹部になれ」と宣告して私を幹部にした中隊長は空曹時代、岐阜の航空実験団で勤務していてベレンコ中尉が乗ってきたミグ25を分解したそうで、「工具が全く合わないで困った」「部品を力任せに締めつけてあって日本人の腕力では外れなかった」と語っていた。一時期、航空自衛隊は敵機役で戦闘機パイロットを鍛える飛行教導隊=アグレッサーに安価なスホーイ27を導入しようとしたことがあったが(本格導入を懸念したアメリカに反対されて中止した)、実現していれば実戦そのものの空中戦訓練が展開したはずだ。
「直轄の重爆撃機部隊の基地はツボレフ22バックファイアがあるベラヤ基地、ここはモンゴル国境のイルクーツクだから内陸過ぎるな。ウクラフィンカ基地ならツボレフ95ベアだし、第326重爆撃機師団司令部があるから我々を収容するには最適だぞ」元航空自衛隊として勝手な勝論を出したところで唐突に尿意を催してしまった。トイレは最後部の壁際だ。
「お客さまにご案内します。着陸までの所要時間は判りませんが、只今より朝食を配りたいと思います。開封しなければ着陸して当機を下りる時にも携帯できます」その時、再び小森希恵の機内アナウンスが流れた。通路を覗くと空色の制服にエプロンをはめた客室乗務員たちはワゴンに山積みにした弁当を窓際に座っている乗客に配り始めていた。
「もう我慢できん」客室乗務員が近づくのを待っていた私は安全ベルトを外すと立ち上がった。そして困惑したような顔でこちらを見た客室乗務員に手でトイレを差して「生理的緊急事態」を伝えた。何とか間に合った。
- 2022/10/26(水) 14:20:10|
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