トイレを出て座席に戻ろうとすると後部扉の窓にはシャッターは付いていなかった。通路を見ると客室乗務員たちは朝食を配り終えて前方で空き箱などの片づけをしている。私は座席よりも姿勢を低くすると這って後部扉に近づき、ユックリと身体を上げて窓から外を見た。すると数百メートルの距離にスホーイ27が1機随伴しているのが見えた。手前側の主翼の下のパイロンには空対空ミサイルを2発装着している。
「あの位置で見られていては下を覗くことはできないな。ワシが原因で撃墜されては閻魔さんも許してはくれないだろう」本当は基地周辺の都市などが見えるかと期待していたのだが、後部扉の窓から顔が覗いたのをスホーイ27のパイロットが発見すれば命令違反として撃墜しかねない。座席の窓を全て閉めさせていれば監視対象は前後の扉の窓だけになるのだ。
「大韓航空機の時、ソ連軍のパイロットは『目標機はナビゲーション・ランプ(航法灯)を点灯させているから民間機だ』『機内灯が漏れている窓の数は数百以上、大型旅客機だ』って報告していながら撃墜した後には『ウラーッ(万歳)』って雄叫びを上げたんだ」私は再び姿勢を低くすると私のロシア語力を知った自衛隊情報保全隊で聴かせてもらった1983年9月1日にサハリン上空で大韓航空機を撃墜したソ連軍パイロットと地上指令所の交信を思い出した。あの時、航空自衛隊は大韓航空機が航空路R20から外れてオホーツク海を横断していることを網走と稚内のレーダー・サイトが探知していた。そしてサハリンに接近すると要撃機が発進して撃墜するまでの一部始終を目撃していた。同時に周辺国の無線交信を探知している情報部隊は基地を発進した戦闘機のパイロットと航空管制官の対話から接近した戦闘機同士の情報交換、地上指令所への報告、撃墜命令、実行までの遣り取りをラジオ劇のように傍受していた。今見たスホーイ27と地上指令所の間で同じ対話が交わされていれば覚悟を決めなければならない。しかし、梢にもう会えなくなることだけは耐え難い。
「ノウマクサンマンダー・モトナンオハラーチイ・コトシャー・・・」私は厄除けに消災吉祥陀羅尼を唱えながら這って通路の手前まで移動し、その場に立って自分の席に戻った。前方で私を確認した小森希恵が会釈したので軽い合掌を返した。座席のテーブルにはサンドウィッチとサラダが入った弁当箱、温かいスープが入った蓋つきの紙カップと小さめの紅茶のペット・ボトルが置いてあった。周囲の乗客たちは手早く頬張っている人と緊張して食欲が湧かないのか開封せずに箱の蓋を眺めている人が半々だ。私も自衛隊時代の習慣で食べられる時に食べることにした。それにしても最期の食事は梢の手料理にしたかった。
「只今から当機はロシア軍の基地に着陸します。私とコパイ(副操縦士)は始めて着陸するので多少はリスクが生じるかも知れません。安全ベルトをもう一度確認して下さい。キャビンアテンダントも安全確保のため座席に着かせますから確認は自分でお願いします」久しぶりの自衛隊式早喰いで弁当箱を空にして冷めたスープを飲んでいると機長の機内放送が入った。通常、機長は乗客のパニックを避けるため不安を与えるような情報は口にしないものだが管制官との交信や上空からの確認で何か違和感を覚えたのではないだろうか。
「窓の開放許可は出ていませんからそのままにして下さい。間もなく着陸します」閉まっている窓の外ではエンジン音が大きくなってきたので高度はかなり下がっているようだ。千歳・新千歳空港の管制官は千歳基地の航空自衛官だが「世界で最も優秀な軍人の管制官」と賞賛を受けている。ところが一般的な軍人の管制官は運動性が良い戦闘機の誘導に慣れているため急激に速度や高度を下げさせる傾向があり、ここでもそれが起きそうだ。案の定、機長が注意喚起したようにKLM321便はあまり整備が行き届いているとは言えない滑走路に着陸すると民航機とは思えないほど激しく振動しながら前進し、エンジンを逆噴射して急制動した。航空自衛隊が政府専用機を運航することが決まった時、輸送機のパイロットが選抜されて日本航空でボーイング747への機種転換操縦訓練を受けたが「着陸が乱暴すぎる」と徹底的に叱責されて、目一杯に水を入れたコップをコンソール(計器表集約機)の上に置いて「外に漏れないように着陸しろ」と要求されたと言う。これではコップが引っ繰り返ってしまう。
それでも無事に地面に下りたらしいKLM321便は誘導路を通ってエプロンに着いたようだ。ただし外は見えないので音と経験による推測だ。エンジンが止まると窓越しに機体の周囲に大型自動車が乗りつけられロシア語の号令と多くの人間が走って移動する足音が聞こえてきた。どうやらこの基地のロシア軍が機体を包囲したようだ。間もなくタラップが掛けられると前部扉が開いて青い軍服を着た軍人が乗り込んできた。
「皆さん、私はロシア防空軍極東軍管区司令部のウラジミール・トルコフ中佐です。当基地にようこそ」英語を話し、妙に愛想が良いところを見ると自衛隊で言う渉外担当者かも知れない。
- 2022/10/27(木) 15:43:17|
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