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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月28日・皇族として初めて戦病没=戦死した北白川宮能久中将の命日

明治28(1895)年の明日10月28日に日清戦争で割譲を受けた台湾の占領を指揮中だった皇族の北白川宮能久(よしひさ)中将が亡くなりました。48歳でした。
野僧などは皇族と言うと平成の天皇一家のように神道のトップの座を放棄して朝日新聞好みの反戦平和教に入信した腰抜けのように思ってしまいますが、明治から敗戦までは明治6(1873)年の太政官達で皇族男子は皇籍の継承や身心に問題がない限り軍役が課せられていて、陸海軍が人事上の配慮はしていたものの平時にも10名が軍に在籍中に病没・事故死していて、第2次世界大戦では2名の戦死者が出ています。中でも北白川宮家は能久中将の3男の成久大佐がフランス留学中に交通事故死し、成久大佐の長男の永久大尉は支那事変中に飛行機事故で殉職して3代揃って軍務中に没しています。
北白川宮能久大佐は弘化4(1847)年に伏見宮家の9男として生れましたが、1歳で既に崩御していた仁孝天皇の猶子(養子)として青蓮宮家の附弟(義弟)にされ、5歳の時には梶井門跡の附弟にたらい回しされました。安政5(1858)年に親王宣下を受けると今度は日光の輪王寺の門主の附弟にされて兄の青蓮宮入道親王を戒師として出家しています。こうして慶応3(1867)年に江戸へ下向すると徳川将軍家の菩提寺の1つ、上野の寛永寺貫主(もう1つは芝・増上寺)と日光の輪王寺門跡を継承しました。
ところが翌・慶応4(1868)年に戊辰戦争が始まり、徳川家が朝敵にされると幕臣と奥羽越列藩同盟の諸藩は京都の皇室は薩長土肥の反乱軍に乗っ取られた傀儡であり、東照神君・徳川家康公と天海大僧正の既定路線の通りに寛永寺貫主の入道親王を即位させて正当な皇室を樹立しようとしました(若しくは東西分国)。ところが肝心の15代将軍が朝敵にされたことで戦意を喪失し、江戸で創設していたフランス式軍隊を出動させることなく寛永寺で謹慎したため全面戦争には至らずに江戸を明け渡し、入道親王は仙台に移って忠誠を尽くして反乱軍を討伐することで結束した奥羽越列藩同盟の盟主になりました。
しかし、正義は敗れ、敗軍の将となった入道親王は京都に送られて実家の伏見宮邸で蟄居することになりましたが、明治2(1869)年に処分を解かれて皇籍に復帰すると明治3(1870)年末にはプロイセンに留学して語学研修と陸軍で訓練を受けた後、陸軍大学校に入校して明治5(1872)年には早世した弟の遺言で北白川家を相続しています。ところが明治9(1876)年末に夫に先立たれていたプロイセン男爵の娘と婚約して日本の皇室と政府に結婚の許可を求めましたが否認されて帰国を命ぜられ、再び京都での3カ月間の謹慎を受けたのです。
職務復帰後は最新の軍事知識を持ち帰った陸軍軍人として活躍し、明治25(1892)年に陸軍中将に昇任して熊本の第6師団長、明治26(1893)年には大阪の第4師団長になり、明治28(1895)年に日清戦争で割譲を受けた台湾を占領する征討近衛師団長として出征しましたが、現地でマラリアに罹患して台南で病没しました。
12月18日に戊辰戦争の東征大総督・有栖川宮熾仁大将に続き5人目の国葬が催され、朝廷から疎んじられた波乱の生涯と出征中の死から「明治の日本武尊」と呼ばれました。
  1. 2022/10/27(木) 15:44:49|
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