「このKLM321便は我がロシア連邦の通過許可を受けることなく領空を侵犯し、退去命令に従わなかった。その罪科により当基地に強制着陸させました。したがって機長と副操縦士は主犯と共犯として取り調べますが、客室乗務員と乗客全員も参考人として事情聴取することになります。事情聴取では氏名と生年月日、所属する組織名と地位以外については証言を拒否することができます」ウラジミール・トルコフ中佐と名乗ったロシア軍の軍人は後に続いて乗り込んできた6人の武装した迷彩服姿の兵士が2本の通路の前中後に配置についたのを確認して説明を始めた。兵士たちは私がウクライナで手に取ったことがあるPP19短機関銃を胸の前で構えているが引き金には指をかけず、安全装置もかかっていた。
「それはジュネーブ条約が定める捕虜の回答義務だ。文民たる我々の事情聴取は任意でなければならず、完全黙秘が認められなければならない」トルコフ中佐がマイクを握ったまま乗客たちを見回した視線が向いた時、安全ベルトを外せない私は座ったまま大声で反論した。通路の兵士たちは内容を理解せずに単なる抗議と思ったらしく間近に立っている兵士は銃口を向けて威嚇した。文民ならこれで恐れをなして黙るはずだ。
「紛争地帯ではない地域で違法行為を犯していない文民に武力行使すれば戦争法違反だぞ」「乗客に銃口を向けるな」私の指摘にトルコフ中佐はロシア語で指示を与えた。ここまで専門知識を披露すれば坊主では通用しないのは当然だ。
「それでは貴方は黙秘権を行使するのですか」「それは質問内容によりますな。取り敢えず私の身分を明かしておきましょう。オランダのスフラーフェン・ハーグにある国際刑事裁判所の次席検察官のモリヤニンジン、国籍は日本国、生年月日は1961年7月1日です。軍歴も必要だろうからつけ加えれば元日本国陸上自衛隊の法務士官、2等陸佐、つまり貴方と同じ階級だ」英語で一気に説明すると乗客たちは妙な感嘆の声を上げた。
「身分を偽ればスパイ容疑で逮捕できたんだがな」「ここで自白されたんじゃあ調書の捏造もできん。流石はウクライナの戦犯裁判でロシア兵を追い詰めている特別検事だ」私の英語の個人情報の申告を聞いて後部の通路に立っている兵士2人が忌々しそうにロシア語で対話した。実は私は中学から高校まで欠かさず聴いていたモスクワ放送で習得したロシア語をウクライナの司法裁判で被告人や参考人になっているロシア兵たちの証言を聞くことで再生させている。同様にこの兵士たちも実際は英語に堪能で、理解できないと油断した乗務員や乗客の会話を聞き取って情報を収集するつもりらしい。私はカンボジアPKOで中国人民解放軍工兵隊と川の両岸から建設する橋の規格を巡る交渉で「中国語と英語しか理解できない」と説明しておきながら実は日本語に熟練した人間を出席させて自衛隊側の日本語での相談を盗み聞きしているのを見破ったことがある。それにしても私が坊主と申告すれば身分詐称でスパイ容疑をかけ、正直に国際刑事裁判所の検察官であることを説明しても調書を偽造してまで同じ容疑を立件するつもりだったようだ。やはりロシア軍にとって私はウクライナの司法裁判所で多くの将兵の有罪判決を獲得している私を殺しても飽き足らない不倶戴天の仇敵なのだ。これは覚悟を決めなければならない。明日の夕べはシベリアの野辺の草の下かも知れない。
「それでは皆さんを宿舎に案内しましょう。日本人以外の乗客が先です。案内の女性兵士の後についていきなさい」続いてトルコフ中佐は若い女性兵士がタラップから機内に入ってくると機内放送で指示した。おそらく日本人とヨーロッパ系が中心の外国人の乗客を隔離するのだろう。ところが立ち上がったヨーロッパ系の乗客たちは「荷物は持って行けないのか」「置いていくなら預り証を発行しろ」と口々にトルコフ中佐に声をかけ始めた。すると通路の中央に立っている兵士が歩み寄って背中を短機関銃で押すと怯えたように黙った。
「乗客と乗務員の機外への退出には私の許可が必要だ。まだ許可を与えていない」その時、操縦室のドアが開き、肩に金線4本=機長の階級章が入った長袖のワイシャツを着た中年の男性が出てきてトルコフ中佐に声をかけた。本来であれば機長はタラップがかけられ、前部扉が開けられた時に立ちはだかるようにトルコフ中佐を迎えるべきだったのだが、それは男性の客室乗務員のチーフに任せていた。その後は「領空侵犯の主犯として取り調べる」と言われて鳴りを潜めていた。それとも機内無線でオランダの本社や関係当局に連絡を取っていたのかも知れないがこの様子では不調に終わったようだ。
「これはドゥーフ機長、ようやくお会いできましたね。このフライトがNATO軍の命令による偵察飛行だったとの嫌疑を払拭する反論証言を準備できましたか」トルコフ中佐は別人のように冷やかな表情になると前方の兵士に命じて最初に機長を連行させた。すると操縦室の扉が開いて副操縦士が脱いであった制服を差し出したので小森希恵が受け取って機長に手渡した。
- 2022/10/28(金) 15:10:20|
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