fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月30日・津軽沖でチェスボロー号の座礁事故が発生した。

明治22(1889)年の明日10月30日に函館で積み荷の石油を下ろし、硫黄を積んで出航したアメリカの3本マストの帆船・チェスボロー号(全長62メートル・1461トン)が暴風に遭遇して流された青森県西津軽郡牛潟村(後の車力村、現在のつがる市牛潟町)の西浜中ノ森沖で座礁しました。
1年後の明治23(1890)年9月18日夜半に和歌山県串本沖で台風に遭遇したオスマン・トルコ海軍の木造フリゲート・エトゥールル号が遭難・転覆して656名が荒れ狂う海に投げ出されて587名が死亡・行方不明になったものの地元漁民の決死の捜索・救助と家族の献身的看護によって69名が救助された事件と同様に牛潟でも地元漁民は積み荷の硫黄で黄色く染まって異臭が立ち込める海に木造の小舟で漕ぎ出し、すでに岩木山には雪が積る季節になっている中で海に飛び込んで遭難者を救助しました。そして浜では大きな焚火の周囲で家族が打ち上げられた遭難者を必死に看護して、凍えている遭難者を妻たちが裸になって抱き締めて温めたのです。
しかし、近代的灯台が海を照らし、海岸付近に漁村があって学校や寺院などの収容施設が完備していた串本とは異なり、車力村は江戸時代に実家に居場所がない農民や漁師の末の子供たちが開拓・定住した集落に過ぎず当然のごとく無医村でした。さらに海岸には屏風山と呼ばれる40キロに及ぶ砂丘があり、牛潟の集落から海岸までは2キロ以上の距離があったため大波で舟が流されないように番をしていた漁師の急報で村人が総出で駆けつけても人手不足は如何ともし難く、健脚な佐々木兵次郎さんと鳴海寅吉さんの2人が64キロの道を走って青森県庁に通報し、救援を求めたのです。
結局、23名の乗組員のうち助かったのは4名でしたが、単純に生存率で比較するとエトゥールル号が656人中69名の10.5パーセントなのに対してチェスボロー号は27人中4人の17.4パーセントで数字上はより多くの人命を救っていることになります。
それでも4名は無事に帰国を果たし、その後の村人の捜索で全員が収容された19名の犠牲者の遺骸は村人によって手厚く葬られ、昭和45(1970)年には車力村牛潟の高山稲荷神社の境内の一角(以前のミサイルロード=現在のメロンロードから海に向かうと高山稲荷神社の手前)に十字架の慰霊碑が建立されました。
また車力村は1990年にチェスボロー号を建造したアメリカのメーン州バス市と姉妹都市になり、それを記念して長距離走(集落から駆けつける村人の姿とも青森県庁まで走った2人を記念しているとも言われる)と長距離泳を競うチェスボロー・カップ水泳駅伝大会が開催されるようになりました。チェスボロー・カップでは参加者が泳いだ距離の通算が車力からバス市までの直線距離5714.67キロに達するのが目標ですが2005年の平成の大合併でつがる市に併合されてしまったため開催が市役所の担当者の企画運営になり、果たして存続できるのか大いに不安です(2019年以降中止されている)。
余談ながら航空自衛隊車力分屯基地には2007年からアメリカ陸軍の弾道ミサイルを探知する移動型Xバンド・レーダーを運用する部隊が駐屯しています。
チェスボロー号慰霊碑チェスボロー号遭難者慰霊碑
  1. 2022/10/29(土) 15:59:23|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ292 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ291>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8004-55abb5bd
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)