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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月1日・八郎潟干拓地の入植が始まった。

昭和42(1967)年の明日11月1日に669平方キロメートルの琵琶湖に次ぐ220平方キロメートルの面積を持っていた八郎潟を干拓して造成した大潟村への入植が始まりました(現在の2位は4つの湖の合計220平方キロメートルの霞ケ浦)。
八郎潟は古くは日本海の離島だった男鹿半島の付け根に位置する汽水湖(海水と淡水が混じり合った湖)で、静岡県西部の浜名湖と同じく多くの海水魚と淡水魚が共存し、貝や海藻が豊富な上、小舟でも危険がない穏やかな漁場でした。ちなみに日本の内陸では唯一、北緯40度と東経140度の10度台の緯経線が湖の中央で交差しています。
八郎潟は平均水深が3メートル未満と浅いため江戸時代から海水の逆流が届かない北部から小規模な干拓が進められていましたが、湖全体の干拓となると表高20万石、実高40万石の秋田・久保田藩の財力でも手に負えず、技術的にも無理があったため干拓よりも原野の開墾を優先して江戸時代を終えました。
明治になると新政府は各藩が個別に取り組んでいた食料の増産を国家事業として行うことになり、奥羽越列藩同盟に与せず薩長土肥の反乱軍側に加わった久保田藩の貧窮を救済するため八郎潟の全面干拓が本格的に検討されるようになったのです。それでも土木技術は江戸時代にも遠浅の沿海を干拓した経験はあっても塩分を含んだ土を水田化しての稲作には成功せず、塩分に強い藺草(いぐさ=畳表の材料)や綿花などが栽培されていました。これでは米の増産にならず明治政府も本腰を入れることなく先送りにして大正、昭和の冷害による食糧危機に間に合いませんでした。
ところが敗戦後に占領軍が妙な理由から八郎潟の全面干拓を日本政府に強要したのです。それは日本の独立に向けたサンフランシスコ講和会議で開戦初頭に今村均大将が指揮する第16軍の攻撃によって9日間で降伏させられ、戦後の独立で東インド=インドネシアの植民地を失ったオランダを賛成させるために巨額の干拓技術の協力費を提供すると言う理由で、日本政府としても農地改革で耕作面積が縮小したところに徴兵されていた農家の2男・3男が復員してきて生じた余剰労働力の解消にもなる一石二鳥の妙案でした。
こうして昭和32(1957)年から工事が始まり、昭和39(1964年)に堤防工事の完成を祝す「干拓式」と称する式典が開かれ、大潟村が発足しました。しかし、実際は海水分を濃厚に含んだ土を脱塩しなければならず、八郎潟の湖口に水門を設置して調整池の水位を上げて満潮時の逆流を防ぎ、排水だけにする方法で淡水化を進めたのです。
こうして耕作可能になった昭和42(1967)年に全国から公募した入植者が移住して耕作を始めましたが、事業そのものの竣工は昭和52(1977)年になってからでした。
しかし、工事期間中は産業の主体を農業から商工業に転換する高度経済成長の真っ最中で、農家の2男・3男は街の工場に就職して労働者になり、さらに食生活の多様化による米余りで昭和45(1970)年からは減反政策が始まったのです。
ただし、大潟村は市町村別では秋田県内で最高の平均収入額を維持していて大規模農業の収益が商工業に勝ることを証明しています。
  1. 2022/10/31(月) 15:45:42|
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