「KLM321便がNATO軍の指示を受けて偵察飛行していたと言うのなら飛行経路の後席データーとロシア軍の軍事施設の位置を書庫として示すべきだろう」私は相変わらずドゥース機長とポンぺ副操縦士の取り調べに立ち会っているが、ロシア軍側は当初の「1時間遅れてアムステルダム空港を離陸したKLM321便のフライトプラン=飛行計画の変更通知を受理していない=領空侵犯」とする拘束理由を疑惑としていた「NATO軍の指示を受けた偵察飛行=スパイ活動」に変更し、証拠物件として「機体底面の貨物室に装着されていた」と称する高性能カメラを提示したが、私が機体内から遠隔操作する装置が付いていないことを指摘し、外部に文字を消した跡があるのを発見して逆に「証拠偽造」の嫌疑を突きつけた。当然、ロシア軍としては手を焼いているはずなので私が抹殺される日が遠くないことを予感している。現在は「できれば切腹、駄目なら拳銃で自決、せめて楽に死なせて欲しい」だけが希望だ。
「モリヤ中佐、オランダのICC(国際刑事裁判所)から電話が入っています」今ではドゥース機長やポンぺ副操縦士を差し置いてロシア軍極東軍管区上層部と私の激論になっている取り調べが終わると司令部の女性士官がドアを開けて声をかけた。やはり軍人たちは私の現在の肩書よりも過去形になった自衛隊の階級の方が呼び易いらしい。それにしても乗客や乗員からスマートホンを取り上げなくても居住地区に妨害電波を張り巡らせて送信不能にしているロシア軍が外部からの電話を取り次ぐとは意外だ。それでもドゥース機長もKLMオランダ航空本社に電話連絡したらしいので、私たちがロシア軍に拘束されていることは事実として認識されているようだ。ドゥース機長の電話には英語が理解できる軍人が立ち会って、会話もオランダ語ではなく英語に限定されたらしいので私も同様の処置を受けるはずだ。
「ハロー、デプティ・パブリック・プロセクター・モリヤ・スピーキング(=もしもし、モリヤ次席検察官ですが)」「ハロー、そちらでは弁護士として活躍しているそうだね」軍人が立ち会う以前に電話は司令部の事務室につながれていた。相手はハリム・カサド・カマド・ハーン首席検察官で声を聞いて私と同じ剥げた頭と真逆に中東系の濃い顔が浮かんだ。ハーン首席検察官にもこちらでの私の活動は伝わっているらしい。
「そちらでの待遇はどうだね」「はい、私は基地の外れにある士官用の宿舎に入れられていますが行動の自由が認められていないので別々の兵舎に収容されているらしい日本人とオランダ人の乗客のどちらとも接触できていません」私の英語の説明を聞いて顔を向けた人物は英語が理解できることになる。しかし、この事務室での盗み聞きを警戒するよりも電話の音声に雑音が入るから基地の交換が傍受しているのは間違いない。
「こちらのニュースではKLMは機長が『日本人のキャビンアテンダント(=客室乗務員)と連絡がつかない』と報告してきたと言っていたがモリヤ検察官に確認を依頼することはできそうもないね」「その客室乗務員、小森希恵さんとは機内で話をしましたが非常に魅力的な女性だったので危険な目に遭っていないか心配です。ソ連軍は第2次世界大戦末期に満洲や樺太で日本人の集落を襲って女性たちを手当たり次第に凌辱しましたから同じことを繰り返す可能性は否定できないでしょう」ロシア兵たちが谷茶満庫を使って小森希恵を慰安婦にしていることを聞いているのだが、私がロシア語を理解できることを秘匿する必要があるため可能性として説明した。本当は間近なウクライナを例に引きたかったのだが目の前の席の女性士官も英語を理解できるようなので控えた。それでも前任のモレソウダ首席検察官以上に勘が鋭いハーン首席検察官であればこのヒントで事態を推察してくれるだろう(多分)。
「本当は日本人の高根智子判事を呼んで気分を和らげてもらおうかと思ったんだが、モリヤ次席検察官は意外に日本嫌いみたいだから今回は止めておいたよ。希望なら次回には手配するよ」「いいえ、前任の戸崎久仁子判事とは親しくしていましたが高根さんとは会っても挨拶を交わす程度です」ハーン首席検察官の意外な気配りに私は全く違う意味で落胆した。私が国際刑事裁判所に着任した頃の戸崎久仁子判事は元外交官なので電話で情報を伝えられれば日本の外務省に届くことが期待できる。一方、2018年に交代した現在の高根智子判事は司法試験に合格して裁判所を巡りをしてきた元法務官僚なので外務省や防衛省とは縁が薄いはずだ。むしろ日本大使館の河瀬直道防衛駐在官を呼んでもらった方が有り難い。
「次回がないように早く出国できれば良いんだが、ロシアが考えていることは想像が及ばないからね」「ヒョッとしてロシアは私たちを人の盾にするつもりかも知れません。あくまでも元自衛隊の推理ですが」私の返事に目の前の女性の士官は驚いたように顔を向け、机の上で何かをメモした。実は私はロシアの軍人たちの会話に「ニポンスキー・ドゥーアポンペ」と言う単語を聞き取っていた。早い話が「日本人の人質」だ。
- 2022/11/07(月) 16:20:47|
- 夜の連続小説9
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