「もしもしモリヤですが・・・失礼しました。安里ですが」「やっぱり梢も日本に帰っていたのね」その夜、佳織は梢のスマートホンに電話をかけた。KLM321便がロシア軍によってシベリアの基地に強制着陸させられたことを報じる新聞記事の搭乗者名簿でモリヤの名前を見てからは数回、オランダの自宅に連絡したのだが不在だった。梢のスマートホンの番号も登録しているが時差の関係で掛けられる時間が限定され、メールにも返信がなかった。
「ごめんなさい。父が末期癌で危篤になって介護のために私だけ帰っているの。メールは見たけど心配かけてもいけないから返信しなかったわ」「それであの人も見舞いに帰国することになったのね」「本当は葬儀に参列する予定だったんだけどウクライナの戦犯裁判の被告がロシアに協力した背信罪になったから休暇が取れたのよ」今日の梢の説明は奥歯にモノが引っ掛かっているように感じる。本当は梢の父親から直接遺言を伝えられるために来日したのではないか。しかし、いくらウクライナの戦犯裁判の特別検事の職務が対象外になったとしても梢の父親とモリヤは長期休暇を取得してまで帰国するほどの関係ではない。これは自衛官ではなく佳織の女の勘だった。すると梢はそれを察したように説明を続けた。
「でも父は意識を取り戻すことがなくなってしまってシベリアで拘束されたのは私たちには大きくて長い寄り道になってしまったわ」「モリヤさん、梢を・・・頼みます、梢を嫁に・・・」梢の電話の向こうでかすれた高齢男性の呟き声が聞こえてきた。梢の説明通りだとすればこれは意識を取り戻さない父親のウワゴトと言うことになる。梢も正妻の佳織に後半のウワゴトを聞かせるのは拙いと思ったようでスマートホンのマイクを親指で押さえた。
「父は意識が戻らないから胸の中の願望を吐き出してしまうのよ、気にしないで」「それがお父さんの本心なのね」「・・・」佳織の答えに梢は返事をしない。仮に梢がこの遺言をモリヤに聞かせるために呼んだとすればそれは梢の意思と言うことにもなる。佳織はモリヤが陸上幕僚監部で勤務していた頃、定年退官後はハワイに移住して2人でアメリカ国籍を取得する老後の計画を立てていた。モリヤは「ハワイで佛教僧になると」と意欲を見せていたが、それは日本の司法試験に合格しているだけのモリヤの法曹資格を手放させることになり、本心なのかは確認していなかった。考えてみればモリヤは結婚以来、常に佳織の夫、子供たちの父親と言う任務を遂行して自分の意思ではなく佳織と子供たちの希望だけを優先してきた。結局、モリヤは幼い頃から典型的体育会系の父親に運動部式の絶対服従を強いられ、自我意識が芽生える思春期や反抗期も圧殺されてきたので個人生活と職業の区分なく立場だけで思考する人間になってしまったのだ。そのため立場を追及することに全力を傾注するあまり適度に妥協する組織の常識からは逸脱して直属上司=中間管理職からは忌み嫌われていた。
「私、もうすぐ自衛隊を辞めてハワイに帰ることになりそうなの」「だって今の非常事態が終わるまで将官の移動はないって言ってたじゃない」「それは前の浜大臣の指示だから大臣が代われば人事も変わるのよ」梢の指摘に佳織の声が重くなった。前任の浜大臣が石田政権の内閣改造で退任し、モリヤも「馬鹿な航空幕僚長をクビにした大馬鹿の大臣」と嫌っている人物が再任されたことは茶山元3佐が送ってくれる月刊定期古新聞で読んで知っているが、国家の危機に対処している現場の自衛官が不満を募らせているとすれば大問題だ。モリヤが聞けば佳織の夫以上に元自衛官として怒るだろう。
「そのことをあの人に知らせようと思ったけど手立てがないから奥さんに伝えておこうと思って」「私は秘書よ。奥さんは貴女じゃない」「私は奥に控えていたことはないわ。いつも表舞台に出させてもらってきた。家内じゃあなくて家外ね。ついでに言えばほとんど一緒にいなかったから連れ合い、伴侶でもないのよ」佳織は唐突に自分を否定する言葉を並べ始めた。梢も父がウワゴトで口にする親としての願望に心が揺れない訳ではないが、若い時の別離を自分の方から切り出した以上、何の落ち度もない佳織に取って代わることは考えられなかった。
「さっきのお父さんのウワゴトをスマホで録画して旦那さんに見せるべきよ。間に合えば良いけれどロシア軍に拘束されれば簡単にはいかないわ」「ニンジンさんに何かあれば私も後を追うからニライカナイで話せるわ」「やっぱり奥さんは梢ね。私にはそんな覚悟はないもの」佳織は梢の言葉が本気であることを察して結論を投げ返した。梢は伯父と両親の執拗な反対で追い詰められたモリヤが「万座毛から飛び降りて心中しよう」と漏らした時、「高所恐怖症でしょう。貴方の足がすくんで飛び降りられなかったら私だけ死ぬよ」と茶化して制止した。それが別離を決めた理由だった。しかし、今は万が一、モリヤが生還しなければ40年前の希望に応えることを決めている。そうすれば死の瞬間、モリヤが強く抱き留めてくれるはずだ。後は沖縄の海邦浄土・ニライカナイで仲睦まじい夫婦として暮らすのだ。
- 2022/11/09(水) 14:02:33|
- 夜の連続小説9
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