永禄10(1567)年の4月18日から半年にわたり松永久秀さん、三好義継さん+三好3人衆と筒井順慶さん、池田勝正さんが奈良各地の古寺名刹に陣を置き、殺生を繰り広げた罰当たりな合戦の最終局面として11月10日に松永・三好軍が本陣を置いていた東大寺を筒井・池田軍が攻撃し、関西に滞在していたイエズス会のルイス・フロイス宣教師の著書「日本史」によれば混戦の中で三好軍のキリシタンの雑兵が「邪教の信仰施設の焼失」を目的で起こした火災によって大佛殿が全焼しました。なお、日本側の記述では撤退後に敵方の本陣に使われないように松永・三好軍が放火したとあります。
奈良の大佛さま=盧舎那佛坐像は聖武天皇の「佛教による国家鎮護」の発願によって各律令国に創建された国分寺・国分尼寺の総本山である東大寺の本尊として天平19(747)年に造立が始まり、天平勝宝元(752)年に開眼しました。その座所・堂宇である大佛殿は開眼後に建設が始まり、天平宝字2(758)年に完成しています。創建当時は高さと奥行きは現在と同規模でも横幅は3倍の長さがあったとされ、より壮大な建築物だったことが想像できます。しかし、400年後の治承4(1181)年12月28日に比叡山延暦寺と並ぶ興福寺の僧兵を討伐するために派遣された平重衡さんが放った焼き討ちの火が折からの強風によって燃え広がり、東大寺も類焼して天平以来の大佛殿が焼失、大佛さんも頭部と手が溶解して転げ落ちてしまったのです。この時の再建は後白河法皇の発願でも平家に代わる武家政権の樹立を狙っていた源頼朝公の全面的な支援を受けて建久元(1190)年から建久6(1195)年にかけて行われ、現在と同程度に縮小された大佛殿が完成しました。落慶法要には後白河法皇と源頼朝公、妻の政子さんが参列しています。
そして今回の消失は合戦の最中に大佛殿の周囲にあった居住区画の穀倉が放火され、多くの堂宇が類焼した飛び火が回廊に燃え広がって大佛殿に火が点き、翌日の午後2時頃まで燃え続けたとされています。今回の延焼でも頭部が溶解して落下したため応急的に銅板で作った顔を模した頭部を載せ、仮設の佛堂を建設しましたが、新たな権力者の豊臣秀吉さんは一向一揆や延暦寺焼き討ち、根来攻めなどで佛教勢力と敵対していたため再建には関心を示さず、京都に新たに奈良の大佛さまの身の丈14・メートルを大きく超える19メートルの木造の大佛さんを造佛して方広寺を創建したのです。しかし、方広寺の大佛さんも失火で焼失し、その再建は東照神君・徳川家康公が息子の秀頼くんに軍資金を浪費させるために持ちかけた策謀で、豊臣家滅亡の一助になりました。ちなみに秀頼くんが再建した木造大佛さんと大佛殿も寛政10(1798)年に落雷で焼失しています。
そして今回の再建は江戸幕府の全面的支援を受けて貞享元(1685)年から始まりましたが、方広寺の建設で全国の巨木が切り尽くされていたため大佛殿の構造を組木式に変更して、大佛さまは元禄5(1692)年に開眼供養、大佛殿は宝永6(1709)年に落慶法要が催されて再建は完成しました。これが現在の大佛さまと大佛殿です。
奈良の大佛さまはやはり国家鎮護の守護尊さまで2度の焼失後、どちらの当事者も間もなく悲惨な末路をたどり、国内では天変地異・大規模災害が続発しています。
- 2022/11/09(水) 14:04:00|
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