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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月12日・共産党中国の劉少奇元主席が虐待死した。

1969年の明日11月12日に共産党中国で吹き荒れていた「文化大革命」の凶風で毛沢東主席の失政「大躍進」による国家崩壊の危機に懸命に取り組んでいた劉少奇同志が失脚させられ、番兵=紅衛兵からの日常的な暴行と虐待で死亡しました。70歳でした。
劉同志は1898年に5歳年上の毛沢東主席と同じ湖南省で生まれました。実際、2人の生家は20キロほどの距離なので同郷と言っても差支えないでしょう。
1913年に湖南省の省都・長沙の中学校に入学し、1920年に湖南省の中国社会主義青年団に入団すると1921年にはモスクワの東方勤労者共産大学に留学し、同年7月1日に上海で結成された中国共産党に入党すると1922年に帰国し、中国各地の労働争議を指揮して1927年には中央委員に選出されました。
1924年に中国各地の軍閥と袁世凱政権に対抗するために始まった第1回国共合作が1927年に崩壊すると国民党支配地域での地下工作に従事し、1934年の長征では延安に同行して毛沢東主席の指導体制確立に貢献しました。1935年12月9日に北京の学生が抗日よりも反共を優先する南京国民党政権に抗議するデモを起こすと指導者として派遣され、以降は崩壊状態に陥った組織の立て直しに当たり、存在感を増していきました。
支那事変の最中の1943年に延安に戻って党中央の書記に就任し、1945年4の第7回全国党大会では「党規約の改定についての報告」を発表してその中で「毛沢東思想」と言う造語を初めて用いています。
こうして1949年に共産党中国が成立すると副主席として毛沢東主席を支えましたが、やがて狂信的教条主義による政治運営によって産業や経済が破綻し、それを毛沢東思想の徹底と強化で挽回しようとした大躍進政策によって国家は崩壊の危機に直面したのです。
この事態に流石の毛沢東主席も責任を認め、1959年には劉同志に主席の座を譲って表舞台から退場しましたが、1966年に突如として造反有理を掲げる「文化大革命」を起こして反共産主義の名の下に現実的な経済政策を推進する実務派を次々に餌食にしていきました。その最大の標的になったのが「主席の座を奪った」ことにされた劉同志で、1966年に主席の地位と政治権力を奪われると1967年1月には紅衛兵が自宅に踏み込んで家族と共に暴行を受け、繰り返し妻と共に人民裁判に掛けられ、9月に妻を逮捕、息子たちを連行して1人された劉同志は持病の薬さえも与えられず、身体の洗浄はおろかベッドに縛り付けられたまま尿と便も処理されず、多くの歯が抜け落ちるまでの虐待が日常化しました。そんな1968年10月の中国共産党中央委員会で「党内に潜んだ敵の回し者、裏切り者、労働貴族」のレッテルを貼られて永久除名、党内外の一切の職務を剥奪されましたが劉同志はラジオでの発表の聴取を強制されています。
病状が重篤になった1969年10月17日に河南省の牢獄同然の地下室に移送され、その地で死亡すると遺骸は「劇症伝染病患者」扱いで汚物のように火葬されました。
名誉回復は鄧小平政権になってからの1980年2月の中国共産党中央委員会で、それを受けて火葬場に放置されていた遺骨は存命だった妻の手で海に散骨されました。
  1. 2022/11/11(金) 15:36:08|
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