1635年の明日11月14日にイギリスで152歳まで生きたとされ、スコッチ・ウィスキーのオールド・パーの名称の由来になったトーマス・パーさんが亡くなりました。
パーさんはグレート・ブリテン島南西部のシュルーズベリー地域の農家=庶民だったため前半生については領主や教会が作成した簡単な記録(戸籍ではなく領民・信者を把握するメモ書き程度)で1483年に生まれ、1500年ごろに兵役で出征したことなど以外は判っておらず、当時の人たちの平均寿命をはるかに超えた80歳で結婚して1男1女を儲けたものの2人とも夭折した後半生から世間の関心を引くようになり、105歳の時にはキャサリン・ミルトンと言う名前の女性に不倫の子供を産ませ、正妻が亡くなると122歳で再婚するなど保健医療が発展した現代でも常識では考えられない年齢と生活(特に性的面の)から祖父の生年のみが残って没年が記入されなかったため3代分の期間が1人のモノにされたのではないかとする推理が伝説とは別に定着しています。
ちなみに1509年から1547年に在位した悪王・ヘンリー8世の6番目で最後の妻・キャサリン・パーさんの父親もトーマス・パーと言いますが同姓同名の別人です。
それでもパーさんの驚異の長命が評判になると1635年にはそれを耳にした国王・チャールズ1世が謁見していますから引き合わせる前の調査は綿密に行われたはずで、存命当時から3代分説を証明する記録は見当たらず100歳を超えて子供を作る超人として国王にも認められていたようです。この時、チャールズ1世は宮廷画家だったピーテル・パウル・ルーベンスさんにパーさんの肖像画を描かせ、この絵はスッコチ・オールド・パーの裏ラベルになっています(方形で割れ目柄のボトルは愛用の食器を模している)。
謁見でパーさんは長命の理由を尋ねられて「粗食と節度ある生活」と答えていますが、王の元で暮らすようになると連日のように豪華な食事を供され、身の回りのことも召使が行うようになったため体調を崩して死期を早める(?)ことになりました。しかし、パーさんを検屍した御典医・ウィリアム・ハーベイ医師の所見では「実年齢は70歳未満」とされていて国王との対話でも歴代国王の治世を尋ねられて「15世紀のことは特に憶えていない」と答えるなど3代分説を裏づける事実が残りました。
それでも庶民としては極めて異例なことに政治家や芸術家などの国家に貢献した重要人物の墓所があるウェスト・ミンスター聖堂でも詩人や文学者のコーナーと言われる南翼廊に埋葬され、墓碑銘には「サロップ郡のトーマス・パー、カミの年(西暦=キリスト教暦)の1483年に生を受けた。10代のイギリス国王の御代に生きた。即ちエドワード4世、エドワード5世、リチャード3世、ヘンリー7世、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー女王、エリザベス女王(1世)、ジェームズ1世、チャールズ1世である。齢152、1635年11月15日、ここに葬られた」と刻まれています。
スコッチ・ウィスキーのオールド・パーはパーさんの長命にあやかって「健康に良い酒」と宣伝するために命名されましたが、明治6(1873)年に遣欧米使節団が持ち帰って明治天皇に献上し、元イギリス公使の吉田茂首相が愛飲していたことで有名です。
- 2022/11/13(日) 15:03:20|
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