「実は客室乗務員の小森希恵が自ら生命を絶ったそうです。貴方にとっては同胞、私には部下でしたから・・・」流石のロシア軍も元航空自衛官で国際刑事裁判所の検察官の私が立ち会っていてはKLM321便をNATO軍の指令を受けた軍事偵察機とする証拠捏造や1時間遅れで出発した飛行計画の変更を受理していないとする過失を成立させることが困難になったようで、ドゥーフ機長とポンぺ副操縦士の事情聴取も中断している。それでも私は1日1度は面談して情報交換していた。ただし、私はロシア語が理解できることを2人にも伏せている上、シャワーが完備した士官用宿舎に押し込まれ、食事も運ばれてくるためこちらから提供する情報は全くない。そんな中、ドゥーフ機長が沈痛な顔で悲報を伝えた。
「やはりKLMの社員として日本人の乗客を守らなければならない責任感に耐えきれなくなったんでしょうか」私としては機内で会った全身から生真面目な雰囲気を発散していた小森希恵がトイレで聞いた慰安婦としての屈辱的な待遇を強いられれば死を選ぶのも当然だと思ったが、この部屋が盗聴されていることは前提条件なのでワザと的外れな推理を返した。
「彼女の常に前向きな人間性を知る者としては責任から逃れようとするとは考えられません。それにオランダで恋人と同棲しているんです。その恋人はKLMの整備員で発進した時、エプロンで手を振っていました」「そんな幸せを自ら捨て去るとなると・・・」私は小森希恵の意外な私生活を知り、それを破壊し尽くしたロシア軍に対する怒りが秘かに噴き上がった。
「ソビエト連邦軍は第2次世界大戦後に日本軍将兵をシベリアに抑留した時、『現地で医療・衛生業務を担当させる』を名目にして日本赤十字の従軍看護婦たちを同行させたんです。ところがシベリア奥地の収容所に分散配置すると先ず所長の将校が強姦し、続いて下士官、兵にたらい回しにして慰安婦同様の扱いをされるようになった。その一方で作業で負傷した日本軍将兵の治療(病気や衰弱した者は放置させた)にも当たらせることで看護婦としての使命感から自死をさせず、看護婦兼慰安婦としての崇高にして屈辱的な生活に耐えさせたんです。それで彼女たちの多くは日本軍が復員・帰国しても現地に残って地域住民の医療業務に当たり、若くして亡くなっています。小森くんも同様の目に遭ったのかも知れません」この史実を盗聴しているロシア軍将兵に聞かせれば先人たちが犯した罪の深さを考えてくれるのではないか。私はウクライナでもロシア軍の戦争犯罪を見てきただけにそれは切実で無駄な願いだった。
「私もロシア軍士官から事実を伝えられただけなので原因や状況は知らないんです。それでも遺骸をオランダに連れて帰れるように冷凍保存するように要望しました。モリヤ検察官は僧侶でしょう。できれば彼女のために葬儀を勤めてやって欲しいんです」「判りました。私は国際法を根拠に強く要求します。機長からもあらためて要望して下さい」私は内心では葬儀を勤めれば遺骸と対面できるので死因が推定できることを期待していた。
私は北キボールPKOで現地人暴徒に愛人と共に拉致されて散々に輪姦された挙句に惨殺されたジャーナリスト・阿部真理のホテルの食堂の冷凍庫に保管されていた遺骸に読経したことがある。あの時は阿部真理の霊が背後に立ち、「ウチは日蓮宗だ」と教えてくれた。一方、小森希恵が信仰している宗教は想像することも難しい。機長は「日本人の坊主」として私に依頼したようだが、オランダ人の恋人と夫婦同然の生活を送っているのなら教会に通って洗礼を受けているかも知れない。何よりも本人は果たして先祖代々が住む佛教の極楽浄土へ逝くことを願っているのだろうか。仮にキリスト教の神の国で恋人を待っていることを希望していれば坊主としては困ってしまう。しかし、キリスト教では自死者は地獄へ堕ちることが決まっている。やはり念佛を唱えれば往生必定の浄土宗の阿弥陀佛にお願いするべきではないか。
「モスクワはウチの機体でオランダ人の乗客と乗員を帰国させることを決めたようです」次にポンぺ副操縦士と面談すると意外な情報を聞くことができた。ドゥーフ機長は不定期にオランダのKLM本社に連絡しているためロシア軍も与える情報は必要最低限に制御しているが、ポンぺ副操縦士には比較的開け広げに現状を語っているらしい。それがドゥーフ機長に漏れてオランダ本国に伝わってもポンぺ副操縦士を処罰すれば済む話だ。
「そうなると日本人だけが残置されるんですね」私の返事にポンぺ副操縦士は重い表情で黙殺した。この態度は私には聞かせられない情報を腹の中に抱えていることを意味している。ところが私はそれを知っていた。作務衣姿で一目瞭然の私が司令部の廊下を歩いていてもロシア人たちは警戒することなくロシア語で会話を続け、通話状態が良好とは言えない電話ではかなり大きな声で議論している。そんな中で耳にした情報だった。
「日本人を爆撃機と輸送機に同乗させて人の盾にする」「足りなければロシア在住の日本人や旅行者も拘束する」小森希恵がこれを知ったとすれば自ら生命を絶ったのも納得できる。
- 2022/11/14(月) 14:02:16|
- 夜の連続小説9
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0