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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月16日・母を殺した孝行息子・奥野清死刑囚の刑が執行された。

昭和42(1967)年の明日11月16日に実母を殺害し、遺骸をバラバラに切断して雑木林に遺棄した凄惨な事件でありながら肉親の情を見せずに苦労ばかりを掛け通した母親に絶対服従し、商売の尻拭いを続けた姿から地元・大阪市住吉区では「孝行息子」と評されていた奥野死刑囚の吊首刑が大阪刑務所で執行されました。42歳でした。
奥野死刑囚は大正14(1925)年に風呂屋と雑貨店を営む家庭の1人息子として生れました。幼い頃から意志が弱く内向的な性格で強圧的な母親には絶対服従して育ちました。戦時下に大阪府立城東職工学校を中退すると漬物屋で店員として働き始めましたが間もなく「店の金を盗んで使い込んだ」として解雇されています。そして悪友に命じられるままに強盗殺人を手伝うことになり、共犯者として逮捕されると懲役15年の判決を受けて大阪刑務所に服役しました。服役中は「刑務所が始まって以来」と言われるほどの模範囚で昭和32(1957)年に仮出所しました。
出所して実家に帰ると母親が1人で漬物店を始めていましたが、元来が奥野死刑囚とは真逆の勝ち気で見栄っ張りな性格だったため商売は上手くいっておらず借金は20万円(1957年当時の大卒初任給は9200円)まで膨らんでいました。しかし、見栄っ張りで気位が高い母親は人に頭を下げるのを嫌い奥野死刑囚に借金に回らせました。
やがて奥野死刑囚は鉄工所に勤めることになり日中は工場の仕事、帰宅後は漬物店の手伝いで働き続けましたが工場の給料を全額渡しても商売は上手くいかず、母親はその責任を息子に押しつけて閉店後は小言を浴びせる毎日だったようです。この頃の姿が「孝行息子」と言う評判に結びついたのでしょう。
それでも奥野死刑囚はこの年に洋裁の仕事をしていた女性と結婚しましたが漬物屋の借金は倍にまで膨らみ、連日借金取りが押し掛けるようになると流石に働く意欲を失ってしまい工場を辞めると母親に店を畳むように勧めましたが、相変わらず「お前は商売が下手だ」と奥野死刑囚をなじり、「そのうち何とかする」「そんな夜逃げのようなことができるか」とうそぶくだけでした。
そこで奥野死刑囚は母親を殺して家を売って借金を返すことを決意して昭和35(1960)年6月8日の夜に殺害すると遺骸を押入れに隠して妻を実家に帰し、翌日に行李に詰めようとしたものの足がはみ出るため鋸でバラバラに切断したのです。そして遺骸を詰めた行李と籠を持って母親の実家がある大阪府南河内郡美原町平生池に向かい雑木林に遺棄しました。母親は生前、「将来は実家の近くに家を建てて住みたい」と言っていたのでこれも少しでも夢を適えようとした孝心だったのかも知れません。
1年4ヶ月の逃亡の末、逮捕されると当時の刑法には子による親殺しを一律に厳罰に処する第200条「尊属殺人」が残っていたため1審で死刑判決が出ると控訴、上告も棄却されて昭和39(1964)年に死刑が確定したのです。
刑場では淡々と執行準備を待ち、首に縄を掛けられて床が落ちる直前、「母ちゃん、今逝くで、待っとれよ」と呟いたのが最期の言葉になったそうです。
  1. 2022/11/15(火) 15:01:43|
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