「KLM機がロシア軍に強制着陸させられて1週間以上が経っているんだ。どこの基地に居るのかくらいは公表するべきじゃないか。外務省は把握しているだろう」「双木外務大臣」「調査に当たっている関係職員の安全を確保するためには軽々しく情報を公表することはできません。国民、取り分け身柄を拘束されている乗客と到着を待っておられるご家族や友人知人の皆さんには誠に申し訳なく思っております。この場を借りてご理解とご協力をお願いする次第です」湧水代表としては国民の批判がロシアに向かないようにするためには日本政府の対応を指弾するしかなく、それがかえってマスコミが取り上げない外務省の危険を顧みない情報活動を説明する機会を与えていた。本来は釜田防衛大臣もイランに潜入してロシアへの武器や弾薬、燃料の移送を調査している岡倉と間宮リンゾーの活動を補足するべきだが、その非合法組織の存在を知っているのは石田内閣では管前首相から引き継いだ立野官房長官と在アメリカ大使館からの報告を通じて察している双木外務大臣だけだ。
「それではせめて拘束されている日本人が無事なのかを答えて下さい」「これは私が答えよう」「石田総理大臣」湧水代表は双木外務大臣の頑なさを強調することで冷淡な印象を演出する戦術に転換したが、今度はそれを察した石田首相が手で制して答弁席に進んだ。
「先ほど外務大臣が説明した通り、ウクフィンカ基地では日本人の客室乗務員が自殺する事態に陥っているようですから政府として無事とはお答えできません」「亡くなったのは誰でしたっけ」「客室乗務員の小森希恵さんでしょう」自分を指名した質問に同じ派閥の双木外務大臣が割り込み、そのまま独演会にしたことに不満を溜め込んでいた石田首相は勢い任せに湧水代表の術中にはまってしまった。石田首相は今回の非常事態で実質的に指揮を執って実力を見せつけたことで「派閥の長と首相を譲り渡せ」と言う声が党内だけでなく国民の間でも沸き起こっている双木外務大臣には秘かに敵意を抱いていた。
「委員長、今の答弁で議事録から削除していただきたい点が2ケ所あります」「石田首相が満足そうに席に戻ると入れ替わりに立野官房長官が委員長席に歩み寄り、双木外務大臣が秘匿しながら石田首相が暴露したロシア軍基地と客室乗務員の氏名の削除を要請した。その前に秘書官に国営放送の国会中継のニュースでの使用を禁ずることを指示させている。
「しかし、内閣の長である首相の判断の方が閣僚の外務大臣よりも尊重されるべきでしょう。首相自ら公表した以上、それが石田内閣としての判断ではないのですか」「・・・それはそうですね。失礼しました」理にかなった予算委員長の回答に立野官房長官は意外に簡単に引き下がった。ここで議論になれば国会中継の視聴者にウクフィンカと言う基地名を思い出させ、記憶させることになる。外務省としてはアジア人が多いシベリアの地の利に乗じて基地周辺で諜報活動を展開している外交官たちの安全を守るためには基地を特定していることを秘匿しなければならなかった。小森希恵と言う個人名は今後、自死の事実が漏れ始めるとロシア兵の慰安婦扱いされたとの動機が低次元な関心を引くのは当然予想される。閣議では石田首相にもこの懸念は説明していたが、外見に寄らぬ軽率さは予想できない場面で発生する。
「それでは最後に確認します。ソビエト連邦軍は1978年4月20日に撃墜してイマンダラ湖に不時着した大韓航空機の機長と副操縦士は1週間程度拘束して取り調べましたが、乗客やその他の乗務員は交通手段が確保できた3日後には送還しています。あの頃はソビエト連邦と韓国は敵対関係にあったのでそれに比べれば今回のロシアの対応は東西冷戦時以上の厳しさを感じます。その原因は何ですか。そして無事に帰国させる具体的な手立てはあるのですか」「石田総理大臣」「外務大臣が答弁します」「手段は外交交渉だけでないでしょう。総理にお願いします」立野官房長官と双木外務大臣から叱責を受けた石田首相は腰が引けたようで答弁を譲ったが湧水代表は許さない。この醜態を国会中継の視聴者に晒すだけで効果は十分、さらなる失言を犯させれば万々歳だ。仕方なく石田首相は事前に送達された質問趣意書を受けて官僚が用意した台本を持って答弁席に向かった。答弁に割り込んだ双木外務大臣は台本なしの持論だったが石田首相にはそこまでの見識はなく、最近はマスコミが批判する台本の棒読みにならざるを得ない。その対策として台本の丸暗記に努めているが粗方忘れてしまった。
「ロシアは安全保障理事会で中国の我が国に対する常任理事国としての懲罰行動を一貫して支持しており、今回の処置も拘束した日本人の乗客を利用する可能性は否定できません。我が国としてはオランダ政府並びにEUとも緊密に連携を図り、強く全ての乗客、乗員の返還を要求し、併せて客室乗務員の自死に関する真相解明を要求する所存です」「今度は名前を言わないんですね」湧水代表は皮肉を返したが、その夜にはインターネット上に小森希恵の写真や福井県内の自宅住所、学歴を含む個人情報が氾濫した。
- 2022/11/19(土) 14:41:27|
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