翌朝は国旗掲揚が行われて小1時間が経った頃に軍用車両が迎えにきた。私は自衛隊の作法で士官宿舎の使っていた部屋を掃除したが、顔馴染みになっている運転手の下士官は元2等陸佐の私が洗面所でモップを手洗いしているのを見て腰を抜かしそうになるほど驚いた。ロシアも社会主義国家・ソビエト連邦時代を含めて他のヨーロッパ諸国と同様に士官将校は貴族階級扱いで、生活上の雑事は召使に当たる当番兵の仕事なのだ。
「まだランナップ(始動点検)のエンジン音が聞こえてこないから出発までには時間があるんだろう。日本人の兵舎に寄ってくれ」拒否したのを奪うように下士官が運んだ荷物を積んで発車すると私は後席から判り易くユックリとした口調の英語で要望した。妻がレイプ被害に遭った浅野夫婦には昨日、保護されている憲兵隊の施設で面談したが他の日本人には基地聖堂での小森希恵の葬儀後に問答を交わした数人の男性以外に会っていない。不満や苦情を投げかけられれば受け止め、母国への伝言や要望があれば預かり、単独で戻るオランダに持ち帰りたい。しかし、下士官は前を向いたまま首を振った。
「お気持ちは理解しますが、士官宿舎からKLM機の搭乗タラップの下までお連れしろと言う命令ですから、それに背くことは軍人としてできません」「そう言う命令を受けているんだね」私は下士官の返事を聞いてポケットから財布を取り出し、日本円にすれば2万円相当のユーロ紙幣を取り出して顔の横に差し出した。
「これは・・・」「長いこと世話になったチップだ。賄賂ではないぞ」「しかし、軍務でチップを受け取ることは・・・」「それなら小遣いだ。さっきの要望を変更する。日本人の兵舎が見えるように経路を変更してくれ。ならば命令違反にはならないだろう」「・・・判りました」下士官はルーム・ミラーで私が微笑んでいることを確認すると片手で紙幣を掴み取り、ボタンを留めていなかった軍服の胸ポケットに押し込んだ。
下士官は要望通りに日本人の乗客が生活している兵舎地区の隅の雑木林に囲まれた兵士用の兵舎の横の道路を回ってエプロン駐機場)でエンジンを始動している旧・KLM321便の手前に停車した。ドゥーフ機長は制服姿で機体の脚部に取りついている整備員たちの仕事を注視している。ポンぺ副操縦士は操縦室でランナップを操作しているようだ。本当は私も元航空機整備員として参加したかったがトルコフ中佐に呼び止められて雑談を始めてしまった。
「整備員の腕は大丈夫だろうな」「我が軍の整備員は世界最高の技量を有している。ましてや当基地の整備員は大型機の取扱いには熟練している」「しかし、世界最高以上の神業を持つ航空自衛隊の整備員もミグ25を分解した時にはあまりに粗雑な作りに苦労したんだ。今回は逆に華奢なヨーロッパ製の旅客機だ。力まかせにボルトを締めて捩じ切ってしまわないだろうな」これは岐阜基地の航空実験団の航空機整備員だった第1教育群の中隊長の体験談の請け売りだが目の前の整備員たちの動作は洗練された航空自衛隊の熟練技に比べると無駄が目につく。
「どうぞ、搭乗して下さい」やがてドゥーフ機長が搭乗タラップの下に集まっているオランダ人の乗客たちに声をかけて階段を登っていった。すでに客室乗務員は機内で出発準備を始めているが機内食はロシア軍が提供するのだろうか。
「ダ・スヴィダーニャ」「何ですか」「グッド・バイ」「ああ、グッド・ラック」乗客たちが搭乗した後に私が階段に向かうとトルコフ中佐がロシア語で「さようなら」と声をかけてきた。気が緩んだところでこの言葉に反応すれば私がロシア語を理解していることが察知されてしまう。そうなれば出国を止められ、スパイとして取り調べを受けることになりかねない。その点、私は前川原で生まれながらの諜報員・岡倉がこの手の悪戯を常用していたので無意識に警戒していた。私が振り返って返事をするとトルコフ中佐は安堵したような顔で両手を差し出して握手してきた。それでもロシア人の挨拶・男同士のキスを避けるため身体を反らした。
今回は日本に向かう飛行とは逆に太陽を追いかける形になるため窓の外は明るいままで窓のシャッターを下さなければ仮眠できない。尤も離陸したのは朝なので眠気を誘うためにでも酒を飲む気にはならず、客室乗務員も機内に残っていた酒類は全て奪われているので勧めに来ない。
結局、往路と同じ機内放送を眺めながら昼食時間にロシアの携帯食のピロシキを食べ、床下の貨物室の棺の中で眠っている小森希恵の冥福を祈りながら過ごした。往路で出会った小森希恵は美しく凛とした気品があったが谷茶満庫に媚薬を盛られて正気を失い、ロシア兵たちの性玩具にされてしまった。そして何故か正気を取り戻したことで自ら生命を絶ったのだが、それを発見したロシア兵に屍姦まで受けている。これからオランダに到着すれば同棲している整備員の恋人と再会することになるが、それをどのような気持ちで待っているのか。小森希恵の魂魄が隣りに座っているような気がして居たたまれなくなった。
- 2022/11/21(月) 14:17:42|
- 夜の連続小説9
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