昭和30(1955)年の明日11月22日に厳重に監視されている死刑囚としては日本で唯一の脱獄犯になった菊池正死刑囚の刑が執行されました。
菊地死刑囚は昭和5(1930)年に栃木県芳賀郡市羽村(現在の市貝市)で生れました。2歳の時に父親の酒乱が原因で両親が離婚すると兄と実妹と共に母親の下に残り、5歳になると再婚して妹が生まれています。菊地死刑囚はこの異父妹を兄として愛していました。
ところが母親が白内障を患って視力が衰えても義父は医者が勧める手術を受けさせず、菊地死刑囚は兄と懸命に働きましたが高額の手術費用には届かず、医者から「手術しなければ失明する」との診断を突きつけられたため犯行を決意したのです。
こうして菊地死刑囚は昭和28(1953)年3月16日から17日の夜間に約300メートル離れた資産家として評判だった女性が経営する雑貨商に押し入り、眠っていた49歳の女主人と71歳の主人の母親、21歳の長男、18歳の使用人の女性を持ってきたロープで縛り上げ、金品を物色しましたが現金2000円しか見つからず、そのまま4人の首を絞めて殺害し、女主人と使用人の女性を屍姦して逃走しました。
17日の朝に4人の遺骸が発見されると田舎で発生した凶悪事件に警察は全力で捜査を開始しましたが、屍姦された女性から検出された精液の血液型が2種類(生理中の被害者の血液の混入だったらしい)で複数犯と言う先入観にとらわれて捜査は難航しました。
ところが菊地容疑者が東京に住む妹を訪ねて使用人の女性の持ち物だった若い女性向きの腕時計を贈ったため地元出身者を訪ねてきた捜査員に発見され、真面目な孝行息子として捜査対象から外されていた菊地容疑者が事件から72日目に逮捕されたのです。
裁判では「母の手術代を得るため」と言う孝心が動機であっても4人を殺害し、2人を屍姦している残虐性を相殺するには至らず(「屍姦は残虐性の演出」と証言したが性行為に及べた事実で不採用だった)、昭和28(1953)年11月25日に1審の宇都宮地方裁判所が死刑判決を下し、昭和29(1954)年9月29日には2審の東京高等裁判所も1審判決を支持し、上告した最高裁判所での公判中に兄から「お前のせいで母親が苛められて大変苦労している」と叱責する手紙が届いたことで「一目会いたい」と言う気持ちが湧き、それが日に日に強まって今度は脱獄を決意したのです。その決意をどのように兄に伝えたのかは不明ですが間もなく1冊の本が届き、その背表紙には金ノコが隠されていました。菊地死刑囚はその金ノコで当時は鋳型製だった鉄格子を切断し、昭和30(1955)年5月11日の午後8時頃に脱走しました。
脱走が発見されたのは翌朝7時の巡回でしたが、菊池死刑囚の孝心は有名だったため即座に捜査員が自宅に赴き、本人が現れるのを待ちました。すると5月22日の午後11時過ぎになって本人が姿を現して逮捕しましたが、「一目で良いからお願いします」と涙ながらに絶叫したため10分間だけ屋内に入れ、母と実妹と対面させたのです。
昭和30(1955)年6月28日に死刑判決が確定し、花村四郎法務大臣が執行命令に決済していたため11月21日に刑場がある仙台刑務所に押送され、翌22日の午前11時半に執行されました。「おかやん、おかやん、助けてくれよ」が最期の言葉でした。
- 2022/11/21(月) 14:22:11|
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