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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月22日・日本陸軍の謀略家・岩畔豪雄少将の命日

昭和45(1970)年の11月22日は戦前・戦中に諜報の枠を超えた情報戦や政治的謀略で活躍した岩畔豪雄(いわくろひでお)少将の命日です。
岩畔少将は明治30(1897)年に広島県の瀬戸内海でも江田島の隣りにある倉橋島で生まれました。広島中学校(現在の国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校に入営すると陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に30期として入校して大正7(1918)年に卒業すると新潟県の新発田の歩兵第16連隊に配属されました。士官学校の同期にはペリリュー島の守備隊長としてアメリカ海兵隊を恐怖させた中川州男大佐がいます。
大正8(1919)年にシベシアに出征して1年半にわたり対パルチザン戦を経験し、帰国後の大正10(1921)年には台湾歩兵第1連隊に転属すると陸軍大学校を受験しましたが、大正11(1922)年に山口陸軍閥の首魁・山県有朋元帥が死んだため山口県出身者が全員落とされる慶事が起こり、成績良好ではなかった岩畔中尉も合格しました。
大正15(1926)年に陸軍大学校を修了すると昭和3(1928)年に陸軍の物流を管理する整備局統制課に転属し、昭和6(1931)年に満州事変が起こると現地で関東軍参謀を兼務して満州国の建国に関与することで経済活動と政治的謀略の実力を身につけ、国内外・官民の枠を超えた幅広い人脈を構築しました。
昭和9(1934)年に東京に呼び戻されると整備局に復帰しましたが、昭和11(1936)年に陸軍省兵務局に移動して2・26事件の軍法会議を担当した頃から外国大使館の盗聴や郵便の盗察、紙幣や旅券の偽造の研究などに従事するようになったのです。
こうして昭和12(1937)年に「諜報、謀略の科学化」と言う意見書を参謀本部に提出すると参謀本部に防諜・謀略を目的に新設された第8課に異動し、兵務局内に地下諜報機関「警務連絡班」を創設しました。
さらに昭和13(1938)年には秋草俊大佐を校長に「後方勤務要員養成所=後の陸軍中野学校」を設立しますが、岩畔中佐自身は軍政の頂点・陸軍省軍務局軍事課に移動し、翌年には課長になりました。軍事課では登戸研究所を設立して第1次世界大戦後に急速に発達した欧米に大きく後れを取っている日本陸軍でレーザー銃や超大型戦車などの新兵器と生物化学兵器の開発を推進しましたが基礎科学力が伴わず、占領地で威力を発揮したのは中国の紙幣の偽札でした。
一方、スターリン書記長の謀略で日本が対米戦に暴走すると軍事だけでなく経済・産業でも日米の国力の格差を認識していた岩畔大佐はアメリカに派遣されて野村吉三郎大将と共に戦争回避のための日米交渉に当たりました。結局、日米交渉は松岡洋右外務大臣によって潰されて戦争に突入しましたが、戦時中に東南アジアでインド独立を支援した岩畔少将をイギリスがシンガポールでB級戦犯として裁こうと引き渡しを要求してもアメリカが拒否したのはこの交渉が両者の信頼関係を築くだけの誠実なものだったことの証でしょう。
敗戦後は吉田茂首相から自衛隊への参加を要請されましたが固辞し、むしろ京都産業大学を創設するなど経済・政治・文化・教育の分野を活躍の場にしたと言われています。
  1. 2022/11/22(火) 15:33:02|
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