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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月24日・加藤清正が死去

1611(慶長16)年の明日6月24日(太陰暦)に肥後藩主・加藤清正公が亡くなりました。数えの50歳、満49歳でした。
清正公は秀吉と同じく現在の名古屋市中村区で刀鍛冶・加藤清忠の息子として生まれましたが(肥後の名刀・正国、通称・同田貫=時代劇画「子連れ狼」では胴太貫との関連にも興味を覚えます)、母が秀吉の母・大政所の従妹であった縁で長浜城主になった頃から小姓として仕えるようになりました。
その後は秀吉に従って各地を転戦し、柴田勝家と信長の後継者の座を争った賤が岳の合戦では七本槍と呼ばれる武功を挙げ、九州出征後には佐々成政の改易を受けて、小西行長と共に肥後半国の領主になっています。ちなみに「熊本」と言う地名は、それまで「隈本(隅本)」と書いたのですが、清正公の好みで強そうな熊に替えたのだそうです。
領主としては築城に合わせて領内の河川の大規模な治水工事を行い、特に阿蘇山麓から火山灰混じりの水が流れる白川と異なる流路の坪井川を河口まで分離させる設計は、噴火による火山灰・瓦礫の流入を防ぎ、氾濫を起こさぬようにする革新的な発想でした。
そして治水工事の進展に合わせて田園開拓を進め、米麦の生産量を増大させ、この善政と加藤家の改易後に領主となった細川家が清正公の遺徳を継承する態度をとったこともあり、領民の人気は衰えず、今でも熊本の旧家には「清正公(せいしょうこ)さま」と呼ばれる像が守り神として祀られています。
また、清正公は秀吉の命に従い朝鮮に出兵し、鍋島直茂・相良頼房を指揮下とする第2軍を率いて、満州の兀良哈(オランカイ)まで進撃しましたが、この時、朝鮮からセロリを持ち帰ったので和名を「清正人参」と言うそうです。
朝鮮の役での清正公と言えば虎退治ですが、虎と言えばインド=熱帯の猛獣と言うイメージがあるので単なる伝説と思われがちですが、現在もシベリアにはアムール虎がおり、名古屋の徳川美術館には虎の頭骨が2つ遺っているそうです。
余談ながら清正公の十字槍の片方の刃はこの時、虎に喰い折られたと言われていますが、二女の八十姫が紀州・徳川家に輿入れした際の嫁入り道具として現存している物は、始めからトの字の形に作られているそうです。
これほどの活躍をしながら清正公は石田光成の讒言で謹慎させられました。ところが謹慎中に大地震が起こり、清正公はいち早く手勢を率いて伏見城に駆けつけ、秀吉の身辺警護を当たって感動させ、怒りは解けました。
関ヶ原の合戦は肥後に帰国している間に起こったため、清正公は西軍に加わった小西行長の宇土城や立花宗茂の介護を攻めて落城、開城させ、黒田如水公と共に九州の制圧に貢献し、旧小西領の半分を加えた肥後52万石の大大名になりました。
関ヶ原後は豊臣家の存続を願い、徳川将軍家との共存の道を模索、努力していましたが、二条城での家康公と秀頼の会見を見届けた帰路の船中で逝去しました。
突然の病死と会見直後と言うタイミングから二条城で秀頼に盛られた毒を代わりに食べたためなどの伝説が生まれましたが真偽のほどは判りません。
法号は熱心な法華宗徒らしく「浄池院殿永運日乗居士」です。
肥後・加藤家は三男・忠広が継ぎましたが、間もなく改易されて庄内藩の預かりとなり、子孫は現在も酒田市内で暮らしておられると山形の親戚から聞きました。石田光成の子孫は津軽藩で、こちらも生き残っていますが。
  1. 2013/06/23(日) 09:40:09|
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