昭和15(1940)年の明日11月24日は戦前の軍部の台頭による軍国主義の勃興と政党政治の混迷を収めることができず日本を破滅の道に進ませてしまった「最後の元老」・西園寺公望(きんもち)さんの命日です。90歳でした。
西園寺さんは嘉永2(1849)年に京都で五摂家(近衛・一条・九条・鷹司・二条)に次ぐ名門・清華家(三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭)の1つ徳大寺家の二男として生れました。2歳の時、同じく清華家の西園寺家の養子になりますがその年に養父が死亡したため家督を相続しています。このため西園寺家の当主でありながら徳大寺家の実父の影響下で育つことになり、その後は孝明天皇が設立した学習院で学び、11歳から宮中に出仕して後の明治天皇の近習になりました。この頃の西園寺さんは福沢諭吉さんの「西洋事情」を愛読して攘夷一色に塗り固まっていた公家には珍しく海外に強い興味を持ち、さらに剣術にも励んで公家とは思えぬ若武者に成長していきました。
慶応4(1869)年1月に始まった戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、北陸道鎮撫総督、会津攻囲戦越後口参謀として各地を転戦し、自ら銃撃戦を交わしたと言われています。
明治になるといきなり新潟県知事に指名されましたが1年で東京に戻ると開成学校でフランス語を学び、西洋の法制度の勉強も始め、無断で京都に戻って私塾・立命館を開設しています。さらに公家の中で最初に散髪すると洋装で宮中に参内するなど欧州かぶれ振りを披露しつつ明治3(1871)年12月に官費でのフランス留学に出発しました。しかし、当時のフランスは普仏戦争の敗北とナポレオン3世の第2帝政の崩壊による混乱の中にありました。それでも西園寺さんはフランスの世情を傍観者として冷静に観察しながら明治13(1880)年に帰国するまで10年近くヨーロッパの知識、思想、文化を吸収、各国の上流階層に人脈を構築してソルボンヌ大学の日本人初の学士になっています。
帰国後は毛利藩の足軽出身の伊藤博文さんや足軽よりも下の軽輩出身の山県有朋さんの配下になりました。この2人は大久保利通さん亡き後の明治政府の実権を握っていたためヨーロッパの知識と人脈を有する西園寺さんは外交や法制で頭角を現し、公家的に責任を負わない立ち回りが功を奏してトップではない重鎮としての地位を確保しました。
そうして入れ替わるトップに重宝がられながら政権中枢で実力を蓄えていくと大正2(1912)年の桂太郎政権崩壊後の首班指名の元老会議に加えられ、体調不良を口実に政争に距離を置いていると大正11(1922)年に山県有朋さんが死んだため唯一の元老として大正から昭和初期の首相の人選を一手に担うことになりました。
しかし、明治の元勲たちは所詮、下層階級の成り上がりに過ぎず後継者を育成するだけの度量と能力はなく、先細った人材払底は如何ともし難く、西園寺さん自身の好みによる人選にも限界が生じ、切り札として起用した五摂家筆頭の近衛文麿首相も満州事変が勃発すると側近でソ連のスパイだった朝日新聞の尾崎秀実元上海特派員の政治工作に利用されて、国民党政権との停戦交渉は頓挫して武力紛争は拡大の一途をたどり、日本は破滅に向かって暴走を始めました。対英・対米開戦前に亡くなったのは幸いだったのでしょう。
- 2022/11/23(水) 14:48:04|
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