2008年の明日11月30日に我々世代には「夢の超特急」として憧れと誇りを与えてくれた初代新幹線0系の定期営業運転が終了し、同年12月14日の「さよなら運転」を以って姿を消しました。
新幹線0系は東京オリンビックが開催される10日前の昭和39(1964)年10月1日に東京から新大阪までの515・4キロの区間の東海道新幹線として開業し、逐次延長された山陽新幹線に接続してからは博多までの1069・1キロを結ぶ大動脈としての重責を担ってきました。0系は44年間に総計3216台が製造されて昭和61(1986)年までに38度の改良が加えられています。
東海道新幹線は高度経済成長によって首都・東京と商都・大阪を往復する旅客需要が急増しながらも高速道路は建設されていなかったため一般道での自動車による長距離移動は負担が大きく、旅客機は1機当たりの搭乗者数が少なかったため料金が割高でした。
そのため旅客が殺到していた国鉄は東京から大阪までの高速列車を実現する必要に迫られ、事故が発生する危険性が高い踏み切りを排除した高架式の専用線路による高速路線を新設することを決定したのです。折から昭和39(1964)年に東京オリンピックが開催されることが決定し、業務以外にも大阪と東京を往復する旅客需要が見込めるようになったため建設工事には巨額の予算が投じられることになりました。
一方、車両については「未経験の新技術は使わず、それまでに日本の鉄道が蓄積した実証済みの技術を組み合わせる」「将来に改良の余地を残す」を基本方針にして設計に着手しました。そうして設計された0系は広軌を採用して全長24・5メートル、幅3.38メートルと狭軌の在来線車両よりも5メートル長く、50センチ以上広い流線型準張殻構造で、高速安定走行を実現するために車輪の直径を拡大して車体の床の高さは南満州鉄道の「あじあ」号と同一規格の1・3メートルになりました。
しかし、0系の魅力は何と言ってもボールをはめたような丸みを帯びた先頭形状と丸い目のような接近表示灯(前方を照らすよりも接近を知らせることが目的)の愛らしい表情、そして白に青の線を引いた車体の塗装でしょう。これは昭和55(1980)年に登場した東北・北陸新幹線の200系では塗装が白と緑に変わり(外観上の目立つ変化)、昭和60(1985)年の100系では接近表示灯が細目のようになって先頭形状は丸みが抑えられて直線的になり、車体の青は紺色になりました。そして新幹線の代名詞だった「ひかり」「こだま」に「のぞみ」を加えた300系では先頭形状がガンダム化しました。以降は0型のイメージは消滅して性能だけを追求した未来志向の機械的な外観になりかけましたが、空気抵抗の研究によって700系からは再び丸みを帯びてきました。
野僧が春日基地で勤務していた頃、毎週のように愚息を自転車に乗せて公園に出かけましたが近くの春日公園では鹿児島本線で「ゆふいんの森」や「かもめ」「ハウステンボス号」などの特急列車を見せ、少し遠い白水公園では途中にある新幹線の列車基地で0系から400系までの歴代新幹線を見て親子で興奮していました。
- 2022/11/29(火) 15:21:49|
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