「夏休みには函館や東京の聖堂に行きたいな」屯田局員=ダノンとエレナの交際はキスの頻度と濃度は高まっているものの清く正しく美しいまま続いていた。それでも夏が近づいて薄着になったエレナを見ると鼻血を吹きそうになる。やはりロシア人にとって日本の夏は堪えるらしく一般公開するのが腹立たしいほどの薄着なのだ。
2人は春には花見を兼ねて出かけた福岡市の空港の東側にあるはずのロシア正教=日本ハリストス教会の亜使徒ニコライ伝習所を訪ねている。ところがベテランのタクシー運転手も知らず、住所で探しても判らなかった。そのため5月の連休には朝一番の新幹線で神戸市の聖神降臨聖堂に行ってきた。すると大きめの民家のような小さな聖堂だったが、葱坊主のようなドームが載った塔があり、中のイコン(聖画)も本格的でエレナは感激していた。何よりも聖神降臨聖堂には神戸市と近郊に住む在日ロシア人が多くエレナは話しながら涙を流していた。
「東京や函館だと日帰りは無理だぞ。留学生は外泊できるのか」「聖堂に参拝するための旅行なら許されるわ。同学年の留学生たちも最後の夏休みだから日本で就職する娘(こ)以外は観光旅行のプランを立てているのよ」屯田局員としては「2人で泊まること」を再認識させようと思って確認したのだがエレナは全く気にしていないようだった。
神戸からの帰路、新幹線の中で屯田局員が泣いていた訳を訊ねるとエレナは今まで語らなかった身の上話を始めた。エレナのラチニナ家は帝政ロシアの時代は大地主だったがロシア革命で資産家や地主が迫害されると日露戦争で日本に割譲されていた南樺太に亡命して開拓団に加わった。父はそこで日本人として生れた。ところが1945年8月9日にソビエト連邦軍が樺太に侵攻してくると亡命者は国内に強制連行されて労働者や農民になった。ラチニナ家はカスピ海東岸の北カフカース地方に粗末な住居を与えられて原野の開拓を命じられたが、1991年12月にソビエト連邦が崩壊したため開拓した農地を私有地として自営農業を始めた。エレナが生まれた頃は平凡な農家だった。ところが1994年にロシア軍が進駐して独立派の摘発を始めると抵抗するゲリラとの戦闘が始まり、それが旧ユーゴスラビアのジェノサイト以上の住民虐殺に発展したことで父はエレナを自分が生まれた日本に逃がそうと日本語を学ばせ、モスクワの親戚が知らせてきた梅香学院大学の留学生に応募させたのだ。日本の報道ではチェチェン紛争は2009年に終結したことになっているが両親は「帰ってこい」とは言っていない。それは単にロシア軍が2008年に南オセチアでも同様の独立派の弾圧を始めたので手が回らなくなっただけなのかも知れない。
「東京と函館のどっちが良い。北海道の函館の方が涼しいのは間違いないな。東京は下関以上に暑いらしいぞ」「本当、朝の天気予報で東京の予想気温を聞くだけで熱中症になりそうよ」エレナが2人での旅行を当然視していることを確認した屯田局員は旅行計画の相談を始めた。屯田局員は東京には行ったことがあるが北海道は未経験だ。山口県人にとっての北海道はテレビで見た「北の国から」の舞台だった富良野や雪まつりの札幌までで函館に関してはヴィジュアル系ロック・バンドのGLAYの歌を聴くくらいだ。山口県ではラーメンでさえ博多の豚骨や長崎チャンポンであって札幌ラーメンではない。
「函館の復活聖堂は安政5年だから1858年にロシア領事館の礼拝堂として作られたんですって。今の建物は大正5年だから1916年に建て直したけど大きくはないみたい」「安政5年と言えば松陰先生が亡くなる前の年か」エレナの記憶力に感心するべきところを屯田局員は山口県の学校教育で植えつけられた余計な知識で気づき逃してしまった。
「東京の復活大聖堂はニコライ堂て言って日本ハリスト教会の本部が置かれているとても大きいらしいわ。建ったのは明治24年だから1891年だけど関東大震災で大きな被害を受けたそうよ。だから今の姿を見てみたいわ。東京の暑さは嫌だけど」結局、結論は屯田局員に出させるつもりのようだ。ロシアに「夫唱婦随」「亭主関白」の4字熟語に相当する言葉があるのかは知らないが(夫が主導権を握ることを意味する「ムーシュ・イズナ」と言う熟語はある)、エレナは今時の同世代の日本人の女子よりも控え目で、父を立てる母に似た雰囲気を感じることがある。ただし、金髪美女のエレナと典型的日本の小母さんの母では容姿は全く違う。そもそもテディ・ベア風の屯田局員は母親似なのだ。
「俺の夏季休暇は日曜日をくっつけた4日間だから移動の2日を外すと実質2日だけだ。北海道旅行には足りないかもな」「ダノンは仕事だもんね。私も今年は卒論を書かないといけないからハウステンボスは断ったけどゼミがあるからあまり長い旅行は無理よ」「東京で決まりだな」屯田局員の判定基準は現実的だがエレナはそれを優先する意味を理解している。おそらくロシアの農家の両親は日本の一般家庭と共通する生活感でエレナを躾けたのだろう。

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- 2022/11/30(水) 14:20:50|
- 夜の連続小説9
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