明治43(1910)年の明日12月1日に現在も山口県では完全無欠の唯一絶対神に祀り上げている吉田寅次郎松陰▲(「さん」欠く)の兄の杉民治(みんじ)さんの命日です。
民治さんは文政11(1828)年に萩城下がある阿武川の河口の三角州を形成している橋本川と松本川の対岸でも近所には足軽の伊藤俊助=博文さんの実家があった下級武士の居住地域の松本村で杉百合之助さんの長男として生まれました。幼名は梅太郎です。
杉家は足軽に毛が生えた程度の下級武士で藩士半農の生活を送っていましたが、祖父の杉七兵衛さんが極めて教育熱心で長男の百合之助さん、二男の大輔さん、三男の文之進さんの三兄弟に英才教育を施したため萩城下で学才が評判になり、大輔さんは山鹿流兵法指南役の吉田家、文之進さんは藩校・明倫館の教授補佐の玉木家の養子になりました。
そんな家庭に生まれ育ったため民治さんは2歳年下の虎之助(後の寅次郎)▲と共に畑仕事や家事に励みながら百合之助さんから論語の講義を受け(実際は暗唱)、成長すると文之進さんが実家に開設していた私塾・松下村塾に入門し、やがて藩校の明倫館に入校することになりました。それでも虎之助▲は病弱だった大輔さんの養子になり、山鹿流兵法指南役を相続しましたが民治さんは下級武士の杉家の跡取りであり、学才を発揮する機会は与えられず嘉永6(1853)年にペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀に来航すると江戸湾防備のため相模に派遣されました。
ペリー提督は幕府=阿部正弘政権が国交樹立の申し入れの返答を1年後と通知したのを受けて1年後の再来航を宣言して帰国したため沿岸防備は継続され、杉さんも相模に留め置かれました。ところが実像は(多分)発達障害の偏執気質だった愚弟・寅次郎▲が江戸遊学で師事していた本当の天才・佐久間象山(出身地では「ぞうざん」)さんの扇動を鵜呑みにして安政元(1854)年に2度目の来航をしたペリー提督の艦隊への密航を企てて失敗したことで帰国を命ぜられ、人手不足の折から郡奉行所に勤めることになりました。しかし、この仕事も安政6(1859)年に寅次郎▲が江戸に送還されるとペラペラと老中暗殺計画を自白して斬首になったことに連座して免職になっています。
ところが万延元(1960)年に父・百合之助さんが56歳で隠居して家督を譲ったため復職すると文久3(1863)年には御蔵元役所本締役に就任し、慶応元(1865)年からは民政方御用掛、明治元(1868)年には民政主事助役を勤め、その功績で藩主の毛利敬親さんから「民治」の名を与えられました(正式な諱は修道)。
明治以降は東京の中央政府に参加することはなく明治4(1871)年の廃藩置県後は山口県権典事に就任して明治11(1878)年まで地方行政に携わりました。
公職を退いてからは明治13(1880)年に萩の乱の責を負って文之進さんが自刃して閉鎖されていた松下村塾を再興し、明治25(1892)年には敗戦後にキリスト教に乗っ取られる萩市内の浄土真宗系の私立女学校の校長に就任しています。
明治政府内でも無能振りを露呈していた毛利藩閥の権威を捏造するため実像に関係なく神格化された弟を持つとこのような余生しか許されなかったのでしょう。
- 2022/11/30(水) 14:22:21|
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