「エレナさんはクリスチャンなんでしょ」「いいえ、ハリスティアニアンです」祖父への挨拶が終わると佛檀の前に座っている祖母が声をかけてきた。8畳の座敷は半分の1間が床の間、もう半分は門徒式の金ピカな佛壇になっている。両親と姉は対面の廊下側に並んでいて茶道の手前のようなエレナの所作に感心していたが祖母は何故か冷めた目で見ていた。
「ハリステって何」「ロシア正教徒のことだよ」祖母の質問にはエレナの右=祖母側に座っている屯田局員が答えた。それにしても祖母の言い方は「磔(はりつけ)」のようだが、イエスが磔になった十字架を崇拝しているキリスト教を揶揄したのではないだろう。
ロシア正教ではスイスの国旗になっている縦横の長さが同じで平面的なギリシア十字も用いるが、横棒が3本ある八端十字架が一般的だ。3本の横棒の短い上段はイエスの頭上に打ちつけた「ナザレ人の王(ロシア正教では『光栄の王』)・ナザレ人のイエス」と記した看板、斜めになった下段は足置き台で、一緒に磔になった2人の盗賊の左の男はイエスを罵倒し、右の男は帰依したためイエス側から見て右が上、左は下に傾いている。この縦棒と横棒3本の端の数から八端十字架と呼ばれている。
「だったら佛壇にはお参りできないわね」「いいえ、ハリスティアニアンはカソリックではありませんから異教徒の霊に祈ることは禁じられていません」エレナの答えに屯田局員は「坂の上の雲」で見た旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の葬儀をロシア正教の聖職者が執行していた場面を思い出した。ローマ皇帝の苛烈な弾圧を受けて信者に対しては殊更に信仰の優越性を説く必要があったカソリックとは違いギリシアから東ヨーロッパ、ロシアに広まった正教会は土着の信仰も吸収していったため比較的寛容な面が目立つ。
「それじゃあ、ご先祖さまにも挨拶しないさい」「はい」エレナの返事を聞いて祖母は皮肉に笑いながら席を譲り、一緒に立ち上がろうとした屯田局員を手で制して1人で佛壇の前に座らせた。どうやら門徒としての信仰を継承することに固執する祖母は2人の結婚には反対らしい。
「カミの子・主ハリストス(=イエス)、罪びとの私を憐れみ下さい」佛檀の前に敷いてある絹風の生地に派手な刺繍が施してある座布団を手でよけるとエレナはセカンドバッグから見覚えがあるロザリを取り出してロシア語で祈りを捧げた。祖母はその真摯に態度に戸惑いながら意味は判らないが心に響く祈りの言葉に聞き入っていた。
「アミン(=アーメン)」エレナが最後に少し語気を強めて唱えると祖母は驚いたように手を合わせて頭を下げている横顔を見詰めた。今日も暑いがエレナはクリーム色の綿のワンピースを着ている。祖母にはそんなエレナの姿が神々しく思えた。
「エレナさんは最後に念佛を唱えましたね」「あれはカミへの祈りに偽りがないことを誓ったんです」「やっぱり念佛だ。数珠も用意してきているし」「これはコンポスキニオン(=ロザリオ)と言って祈りを数える道具です」「だったら数珠じゃない」祖母は宗教は違っても若いエレナの真摯な信仰心を見て取って気持ちを反転・急発進させたようだ。
「エレナさんは農業の経験はあるの」「はい、ウチは農家ですから幼い頃から両親の仕事を手伝っていました」昼食は実家近くに開店した料亭で外食になった。そこでも祖母の面接試験は続く。祖母にとっては幼い頃から農家の嫁として仕込んだ孫娘が農家に嫁に行った以上、孫の嫁も農業に励まさなければご先祖さまに申し訳が立たないのだ。エレナの信仰心は合格させたが、金髪が美しいエレナが土塗れるとは思えない。ところが回答は予想外だった。
「実家では何を作ってるの」「小麦や大麦、季節によってジャガイモや茄子、トマトや葉物野菜ですが、祖父と父が開拓した農地なのであまり土が肥えてなくて収穫はあまり・・・」「グスンッ」エレナの答えは実際に農業を手伝っていなければ出せないものだ。祖母は感激して涙ぐんでしまった。するとエレナは座卓越しにハンカチを差し出した。
「これは・・・」最後に地元では観光名所にしている弥生時代の集落埋葬地の復元博物館に行くとエレナは凍りついたように動かなくなった。ドーム型の展示館には折り重なるように多くの人骨(複製模型)が横たわり、発掘した時の状況を再現している。屯田局員としては弥生人が日本に稲作を持ち込んだことを説明して「弥生時代から百姓だ」とウケを取るつもりだったが、この怯え方は普通ではない。屯田局員はエレナの震える手を強く握った。
「1994年にロシア軍が一度チェチェンから撤退した時、ロシア軍が作った埋葬地を掘り起こして遺骸を回収したの。その時の光景が・・・」「お前も見たのか」「ロシア軍が犯した人道に反する罪を学べって学校から見学に行ったわ」エレナがチェチェン出身であることは神戸からの帰路に聞いていたが、日本ではチェチェン紛争の報道はないに等しく現代史に特記すべき惨劇の舞台であるとは思いもしなかった。エレナは黙って胸に顔を埋めてきた。
- 2022/12/02(金) 14:38:47|
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