明治4(1872)年の明日12月4日に生きていれば欧米列国との外交交渉に抜群の能力を発揮しただけでなく、近代化にも絶大な貢献をしたのは間違いない大天才の佐久間象山(出身地では「ぞうざん」)先生を暗殺した天下の大馬鹿者・河上彦斉▲(「さん」欠く)が江戸日本橋の小伝馬町で斬首されました。37歳でした。
河上▲は島津藩士で公家と偽って権勢を奮った島田左近さんほか多数を暗殺した田中新兵衛▲や土佐郷士で武市半平太▲に命ぜられるままに暗殺を繰り返した岡田以蔵くん、そして島津藩士で明治の新国軍創設に参加して陸軍少将になった中村半次郎=桐野利秋▲と共に「幕末4大人斬り」と呼ばれています。
河上▲は天保5(1834)年に肥後・細川藩の下級武士の次男として生れ、同じく下級武士の河上家に養子に出されましたが、小柄で色白な女性のような顔立ちだったため15歳で頭を剃らせられて藩主邸・花畑屋敷の茶坊主に取り立てられました。そのまま坊主として出世する一方で学問を修めますが兵学を毛利藩の狂人・吉田寅次郎松陰▲の盟友・宮部鼎蔵▲に学んだため「尊皇攘夷」に染められ、過激な排外主義に走り出したのです。
河上▲の剣技は師事や道場への入門の記録がないため自己流と言われていますが、片膝が着くまで屈伸した姿勢からの片手逆袈裟斬りが得意技だったと言われています。
文久2(1862)年に上洛すると京都で暗躍していた毛利藩士の久坂玄瑞▲や桂小五郎▲と親しくなり、この時に還俗して医者として頭を剃っていた久坂▲と一緒に髪を伸ばし始めたようです。この伝(つて)で三条実美▲の信任を得ましたが翌年の八月十八日の政変で三条と三条西季知▲、四条隆謌▲、東久世通祷▲、壬生基修▲、錦小路頼徳▲、澤宣嘉▲の7人の公家が毛利藩に逃亡するとこれに同行し、ここで高杉晋作▲と知り合い、倒幕について話し合ったようです。ところが元治元(1864)年の寺田屋事件で師の宮部▲が死ぬと仇を討つべく上洛し、ここで一橋慶喜さんの命で公武合体の政治工作と皇居を防御に適した彦根城に遷座させる案の実現に当たっていた佐久間先生が京都の目抜き通りを西洋式の鞍で騎乗しているのを見て衝動的に馬の下から逆袈裟に斬りつけて殺害しました。一般的には「開国を説いていたことで尊皇攘夷派の過激浪士に狙われた」と言われていますが、河上▲は上洛して間もないので佐久間先生の活躍を知ることはなかったでしょう。
その後、禁門の変と幕府の長州征討では毛利藩側で参戦し、第2次長州征討で勝利すると細川藩を反乱軍に引き入れようと帰国しましたが、投獄されて戊辰戦争には参加しませんでした。それでも明治政府が成立すると細川藩は河上▲に仲介を命じましたが拒否し、やがて「尊皇攘夷」を旗印に掲げて徳川幕府の外交政策を妨害するために外国人の殺害を繰り返しておきながら長崎に近い地の利で欧米の銃器を入手すると一転、藩軍を西洋式に改めて討幕を実現した薩長土肥は新政権でも日本の西洋化に妄進したため権力者たちは「尊皇攘夷」を本気で信じていた過激分子に変節を批判され、かつての幕臣たちのように暗殺されることを恐れて抹殺を図るようになり、河上▲も対象になったのです。

黒鉄ヒロシ「坂本竜馬」より
- 2022/12/03(土) 16:13:56|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0