屯田局員の夏季休暇は家族持ちを8月15日前後に優先させるため8月でも最終週になった。そのおかげで「気のせいか」程度には日差しが弱まり、エレナも実家で祖母にもらった渋い日傘を差して元気一杯だった。
下関市から東京都千代田区神田駿河台にあるニコライ堂=復活大聖堂までは宇部空港から羽田空港に飛び、モノレールで浜松町駅に着くと山手線に乗るが最寄り駅は中央線と総武線の御茶ノ水駅なので東京駅や新宿駅で乗り換えなければならない。東京メトロや都営新宿線もあるが山口県には地下鉄がないので入口が判らない。前回、東京に来た時も普通の地下道と見分けがつかなかった。これが秋から冬であれば寄り添って歩くのだが夏には自死行為だ。
「素晴らしい。こんな立派な聖堂はチェチェンにはないわ」高架を走る列車の窓からニコライ堂のドーム型の屋根が見えるとエレナは感激したように歓声を上げた。それでもビルが立ち並ぶ東京では高さ35メートルのニコライ堂が見えるのはビルの切れ間に限られる。
「鐘の音は聞こえないね」「あれはミサの時に『集まれ』って知らせる鐘なの。多分、日曜礼拝の前ね」御茶ノ水駅を聖橋方面出口から外に出てもニコライ堂は駅前の店舗ビルに遮られて見えない。日傘を相合傘にして歩きながら屯田局員は妙なことを口にした。山口市ではカソリックのザビエル記念聖堂の鐘の音を時報としてスピーカーで流しているのを思い出したのだ。そのザビエル記念聖堂は1991年に焼失して1998年に再建されたが、復元ではなく外観と内部共に現代風の建物になったため観光名所としては人気を喪失している。
「美しいわ」「綺麗だ」大聖堂に入る時、エレナは携帯電話の電源を切らせて、声量を落とすように指導した。そうして入った大聖堂は厳粛な雰囲気に満ちていて正面の祭壇の横に並ぶイコン(聖画)がロシア正教の特色を感じさせた。前を歩く見学者たちが振り返って見上げているので倣うとそこには天井までの巨大なステンドグラスが夏の光で輝いていた。
エレナは聖堂内に低く流れている聖歌に合わせて小声で唄いながら前に進んだ。すると襟から足首まであるボタンがない黒い祭服=リヤサを着た輔祭(司祭に準ずる聖職者)がにこやかにロシア語で声をかけてきた。エレナはその場に跪いて両手を握り、輔祭は垂れている金髪の頭(こうべ)に片手を置いて何かを唱えた。屯田局員はその横で合掌して頭を下げていた。
「私は異教徒と結婚することになります」エレナは何故か日本語で告白した。あれからエレナは納屋で祖母と母、姉に日本の農具を見せてもらい使い方を習っていた。ロシアでは鋤(すき)でショベル式に土を耕すので刃部の重量を利用する鍬(くわ)は特に気に入って、「実家に送りたい」と屯田局員に相談してきた。結局、あの日に行われた屯田家の女性陣3人の面接試験に合格して「信彦の嫁」に決定したようだ。男性陣も父と義兄に祖父までエレナの美貌に夢中になっていたので今更反対するとは思えない。
「日本の念佛信仰は多神教の佛教でありながら唯一絶対の存在を祈りの対象にしていて我々の教義と共通している。自力ではなく救いを信じて決して疑わないところも同じだ。貴女がこの男性と結婚したなら彼の家のブッダをハリストスが名を変えた存在と信じて今と同じように祈りなさい」「・・・はい」輔祭の言葉にエレナは深くうなずいた。これを屯田局員にも聞かせるためにあえて日本語で質問し、輔祭も事情を察して日本語で答えたようだ。
「聖領を差し上げよう。特別に彼にも」輔祭は祭壇の脇の控え室から数片のパンを入れた皿と赤い液体が入ったグラスを載せた盆を持ってくると再び日本語で声をかけた。聖領はパンがイエスの肉体、赤ワインは血を意味していてミサの後、信者だけに振る舞われる。
「父はサハリンでソビエト連邦軍が日本人女性を手当たり次第に乱暴するのを見ていたの。だからロシア軍が進駐してきた時、家の床下に地下室を作って母と私たち姉妹を隠したわ。それでも独立派の捜索が始まるとサハリンと同じように多くの女性が乱暴されるようになったからモスクワの親戚に私たち女だけを預けたの。だから私のバージンは父が生命を賭けて守ってくれた特別な物なのよ」夕食は本格的なロシア料理店でエレナが実家で食べていた家庭料理を味わいチェック・インしていたホテルに帰った。交代でシャワーを浴びるとエレナは部屋の灯りを消してベッドに座り、窓のカーテン越しに差し込む街明かりに顔を浮かび上がらせて待っていた。遊びでつき合っている男ならイザ本番と言う前にこんな重い話を聞かせられれば性欲が萎(な)えて実施不能になりそうだが、真剣な交際の屯田局員はエレナを抱く意味を深く受け止めた。エレナも今日、ニコライ堂の聖職者の許しを得たことで覚悟を決めているようで、屯田局員が隣りに腰を下しても黙って自分の膝を見ていた。屯田局員はエレナの肩に手をかけるとユックリと抱きよせ、バスローブの襟から手を差し入れて優しく乳房を包んだ。そこから先は手順通りだが気持ちだけは聖なる儀式だった。

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- 2022/12/03(土) 19:59:27|
- 夜の連続小説9
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