「ロシア軍に人道と言う概念はないわ。絶対に日本国内に入れては駄目」実家の部屋でテレビのニュースを見ながら出勤の支度を終えた屯田局員にエレナは質問の結論を伝えた。2人は屯田局員が地元の栗野郵便局に転勤になって実家で同居を始めたが、エレナは祖父母、両親とも仲良く暮らしていて近所の住人たちからも絶大な人気を獲得している。しかし、周囲はエレナがロシア人でも非人道的な迫害を受けたチェチェンの出身であることを知っていても最近はインターネットなどで知った他所の人間が乗り込んできて暴行を加えることも珍しくない。先日はエレナが颯爽とトラクターを乗りこなす姿が地元のローカル新聞に載ったばかりだ。
屯田局員はあの夜、純潔を捧げてくれたエレナの不思議な顔を思い出しながら抱き締めてキスをした。あの夜のエレナは破瓜の苦痛に耐えながらも逃れようとはせず、むしろ身を捧げるように屯田局員を受け止めていた。今思い出してもナニが起ってしまうほど感動的だった。
「弾道ミサイル4発、捕捉しました」「やま、あまご、おはぐろ、あしから、迎撃せよ」「やま、SM3、発射準備」屯田局員が栗野局で重中局員と配達の準備を進めていた頃、北海道の周辺海域に展開している海上自衛隊のイージス護衛艦隊では恐れていた事態に対処していた。日本の情報衛星がシベリア内陸部の弾道ミサイル基地で発射準備の兆候を捉えて以降、重点監視していたところ今朝4発の同時発射を確認したのだ。この情報は役所の手順通りに立野官房長官に伝達されたが、先ず横須賀の自衛艦隊司令部に連絡した。手順でいけば首相の次には防衛大臣に連絡して弾道ミサイルの破壊措置命令を発令させなければならないが、立野官房長官は北朝鮮の弾道ミサイルの連続発射でそのような手順は省略しなければならないことを学習していた。護衛艦隊司令部からの連絡を受けてイージス護衛艦・やまの艦隊司令官は最新型・迎撃ミサイル・SM3ブロック2Aの発射準備と弾道ミサイルの捕捉・追尾を命じた。
「各艦に目標割り当てを実施します」「よろしい」「やまの担当第1目標、SM3にデータ入力完了。操作員、退避完了」やまのCIC(戦闘指揮所)では砲雷長が驚くほど冷静に戦闘を指揮している。それはこの海域に配置されて以来、眠ったままでも操作できるほど訓練を繰り返してきた隊員たちも同様だ。この状況は日常風景になっている。
「各艦、発射準備よろし」「弾道ミサイル、降下を始めました。高度・・・まだ大気圏外です。射程距離到達まで300秒」「やま、よし。あまご、よし。おはぐろ、よし。あしから、よし。全艦、よろし」イージス艦隊司令官の指示と各艦からの報告を伝える海曹の口調も淡々としている。海上自衛隊のイージス護衛艦はアメリカ海軍と世界で唯二(ゆいに)、大気圏外での弾道ミサイルの撃墜に成功していて、その自信が失敗した時の不安を打ち消しているのだ。
「射程到達まで200秒、大気圏内に突入。上部ハッチ、開放。SM3のエンジン、作動開始」「各艦、発射用意、発射は各艦の判断とする」「やま、発射用意、60秒前」CICは艦橋ではないので肉眼では艦前部のSM3ブロック2Aの状況は見えないが、モニター画面の中継映像は甲板のハッチが横に滑り、中から炎を噴き出したのを映している。
「30秒、25秒、20秒、15秒、10、9、8、7、6、5」「発射」「発射」砲雷長は5秒前に発射命令を下した。これはSM3ブロック2Aが弾道ミサイルまで到達する所要時間を計算してのことだが、旗艦であるまやが初弾を発射することが帝国海軍以来の「指揮官先頭」の伝統でもある。ただし、帝国海軍の日本海海戦以来の「指揮官先頭」は対米戦争では先頭艦を狙われて指揮官が戦死することになり、混戦状態の海戦では全体の状況が見えず指揮に混乱を来たすことも多かった。何よりも混戦の中、艦隊の中央に位置した指揮官が「臆病者」と批判されるほど固定観念に陥っていたため現在の海上自衛隊では踏襲していない。すると別のモニター画面では他のイージス護衛艦もSM3ブロック2Aを発射した映像が映った。
「目標まで5、4、3、2、1、今・・・命中」レーダーを注視している海曹の報告と同時にモニター画面は晴れた朝の空にオレンジ色の閃光が輝き、火の塊りが落ちていく光景を映した。さらに数秒の間隔で3回同じことが繰り返された。ハリウッドの戦争映画ならCICに拍手が沸き起こり、歓喜に包まれるところだが現実は淡々と次の仕事に移っていく。
「ひとなみが潜水艦らし、探知」「やはり来たか」「迎撃を妨害されないで助かりました」次なる試練に対する矢継ぎ早の問答も淡々としたままだ。やはりロシア海軍は海上自衛隊の能力を正確に評価していて弾道ミサイルが撃破される可能性を認識していたようだ。
「ひとなみが撃沈許可を求めています」「我々は海上における警備行動で対処している。ここは公海上だ。撃沈は許可しない。追い回して泣かせてやれ」ミサイル護衛艦・ひとなみは太平洋の日本船団の護衛で中国海軍の潜水艦を撃沈しているが日本近海では許されないのだ。
- 2022/12/04(日) 14:43:12|
- 夜の連続小説9
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