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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

日中両国の本音を引き出した江沢民国家主席の逝去を悼もう?

11月30日に第2次天安門事件後に多大な恩恵を受けていながら来日しての宮中晩餐会で日本の戦争責任を口汚く罵り、ソビエト連邦から引き継いだ日本の教育界や文化人、マスコミなどの喧伝によって国民を欺いてきた「日中友好」が虚構であることを覚醒・周知した江沢民国家主席が亡くなりました。流石に世にはばかって96歳でした。
江主席は1926年に上海や南京を有する江蘇省で生まれました。父親は「日本の対国民党政権の工作機関の一員だった」とされる一方で叔父は「創設まもない中国共産党の幹部で跡取りを儲けないまま支那事変中に匪賊に殺害されたため江主席が養子になった」と言われています。しかし、江主席の父は嫡子の長男であり、叔父は6男なので本家嫡流の次男だった江主席を養子に出すことは中国の家族制度から見て考えにくく、後述の文化大革命での経験で自分に有利な経歴を作ったのでしょう。
日中戦争(1941年12月の宣戦布告以降)中の1943年に揚州中学校を卒業して南京中央大学に進学しますが、終戦後の1945年10月に上海交通大学を合併したため経歴上はこちらの卒業生になっています。大学在学中の1946年に共産党に入党しましたが指導的地位ではなく単なる入党した学生だったようです。
1947年に大学を卒業すると上海の食品会社の技術者になり、1949年10月1日の共産党中国が成立後も多くの工場で技術者として働きながら昇進を重ねて1966年には武漢に新設された熱工機械研究所の所長兼党書記代理に任命されますが、この年に始まった文化大革命では社会的エリートとして批判対象にされたものの前述の「革命烈士の子弟=創設期の戦死した共産党幹部の養子」と言う経歴が役に立って無事にやり過ごしました。
1970年に北京に移動して共産党の工業部門の指導者として要職を歴任しましたが、1985年に上海市長に抜擢されると1987年12月に発生した学生の民主化デモで代表者と対話して解決に導き、常識的な調整型としての評価を得ました。
ところが1989年に学生が天安門広場に集結して胡耀邦党書記を追悼すると鄧小平国家主席が「動乱」と断定し、これを受けて江市長は態度を一転させて民主化運動を容認する上海の新聞を停刊処分にして「イザとなれば」と党内での知名度と評価が高まりました。
そして1989年6月4日に第2次天安門事件が発生すると鄧小平国家主席によって党書記・中央政治局常務委員に抜擢され、1999年に国家主席となる道が開けたのです。
第2次天安門事件で共産党中国は文化大革命終結後の鄧小平政権による改革開放路線をソビエト連邦のペレストロイカと同様に捉えていた西側の徹底的な批判に晒され、外交・経済の交流を断絶させられる危機的事態に陥りましたが竹下登・宇野宗佑・海部俊樹内閣を巧みに操って日本とは経済関係を維持し、1992年には平成の天皇を中国に訪問させて国際社会での信用を回復するのに利用しました。ところが共産党中国国内では愛国教育=反日教育を徹底させて10億人の忘恩の徒を出現させたのです。
結局、日中関係には善意や友情が介在するような土壌はなく、損得の利害だけで成立していることを日本人に教えてくれた得難い恩人でした。閻魔大王によろしく。
  1. 2022/12/04(日) 14:45:15|
  2. 追悼・告別・永訣文
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