昭和45(1970)年の明日12月7日は戦艦・ミズーリ甲板における日本国並びに日本軍の降伏文書の調印式で海軍の首席随員=代表を務めた富岡定俊少将の命日です。
富岡少将は明治30(1897)年に父親の富岡定恭大佐(後の中将)が海軍兵学校の教頭だったため広島県の江田島で生まれました。ただし、本籍地は父親の出身地の信州松代=長野県長野市です。その後も富岡大佐は艦長勤務が続いたため留守宅を江田島に置き、富岡少将は海軍兵学校付属従道小学校、旧制・高千穂中学校を経て大正3(1914)年に45期生として海軍兵学校に入校しました。45期には伏見宮博恭元帥の宮家を長男・博義大佐や戦艦・大和の最期の艦長・有賀幸作大佐、ガダルカナル設営隊長の奇人・岡村徳長大佐などがいます。ところが最終学年だった大正6(1917)年に富岡中将が病没したため日露戦争の戦功で叙せられていた男爵位を継承することになり、その手続きと儀礼で東京を往復していて卒業試験が受けられず序列は20位でした。
卒業・遠洋航海後は装甲巡洋艦・阿蘇に配属されますが、ロシア革命直後の大正7(1918)年には陸戦隊小隊長としてロシアの極東地区の首都・ハバロフスクのニコラエフスクの警備に当たっています。その後は多くの艦艇に乗務する一方で各種学校への入校を繰り返しますが昭和2(1927)年に海軍大学校に首席で入学し、首席で卒業したことでハンモック・ナンバー=海軍兵学校の序列の呪縛から解放されました。
海軍大学校卒業直後に少佐に昇任するとフランス駐在を命じられ、翌年には国際連盟海軍代表随員、さらに翌年にはジュネーブ軍縮会議全権随員を命ぜられて昭和7(1932)年に帰国しています。帰国後は重巡洋艦・衣笠の分隊長を経て軍令部に配属され、以降は時折、艦隊の参謀になった以外は軍令部や海軍省での勤務が続きました。
そうしてスターリン書記長が日米両国に送り込んだ政治工作員の策謀によって対立が激化すると富岡大佐は軍令部内で「アメリカに大損害を与えて戦力の均衡を確保した上で妥協点を模索して講和に持ち込む」と言う対米強硬論を主張しましたが講和の仲介者については思案しておらず永野修身軍令部総長などの上層部には受け入れられませんでした。その一方で山本五十六連合艦隊司令長官が進めるハワイ・真珠湾奇襲作戦には「占領の目途が立たない」と反対し、インド洋での海上交通路破壊によるシンガポールの孤立化を提言しました。それでも対米・対英戦争が始まるとミッドウェイ攻略を主張する連合艦隊とアリューシャン攻略を主張する軍令部とは別にアメリカとオーストラリアの連絡路を絶つフィジー・サモア方面への侵攻を主張しましたが採用されませんでした。結局、昭和18(1943)年に軽巡洋艦・大淀の艦長を経て再び艦隊参謀を始め、昭和19(1944)年になって軍令部に戻されています。
戦争末期には特攻隊を命じた自責の念から日本と言う国家そのものを道連れにしようとする大西瀧治郎中将に同調して降服阻止を画策しますが、昭和20(1945)年9月2日の降伏文書の調印式では陸軍の梅津美治郎陸軍参謀総長に相当する豊田副武軍令部総長が頑なに拒否したため分不相応に海軍の代表になりました。これは海軍の醜態でした。
- 2022/12/05(月) 14:33:13|
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