「どうしたッ」「録画していますから慌てなくても良かったのに」立野官房長官と秘書官が会見室に一番近い事務室に駆け込むと女性事務官が呆れたように声をかけた。確かに全てのテレビ放送を常時録画している部署から映像を送ってくるので走ってくる必要はなかった。
「現在、ロシアの国営衛星放送で極東軍管区が重大発表をしているようです」「今朝の弾道ミサイルについての弁明だな」女性事務官がリモコンを操作している間にこの事務室の長である中年の男性事務官が歩み寄り、内容を説明した。それは中座してでも見なければならない。
「今朝10時3分にシベリアの日本海に近い地点から通常弾頭を搭載したSS20弾道ミサイル4発を発射しました」女性事務官が再生すると「極東軍管区司令部広報官・イワノフ大佐」と字幕で紹介しているロシア地上軍の軍服を着た大佐が映り、説明を始めた。発射時間はウラジオストク標準のようで1時間先行の時差がある。画面の下に英語の字幕が流れているところを見ると前もって録画した映像なのかも知れない。
「目標は日本国内の日本軍(自衛隊)が単独で使用している軍事施設で、これは国際連合常任理事国の中華人民共和国から同じく常任理事国である我が国に日本の戦争犯罪に対する懲罰に参加するように要請があり、昨晩になって実施を決定したのです」SS20はソビエト連邦時代の車載式中距離核ミサイルだが、1987年に締結したアメリカとの核兵器削減条約でアメリカの中距離核ミサイル・パーシング2と同時に破棄することになった。それでもロシアは「通常弾頭に変更すれば対象外」としてミサイルそのものは継続使用している。
「残念ながら日本国は懲罰を拒絶して海軍艦艇によってSS20は全弾撃破されました。つまり日本国は戦争犯罪を反省することなく、国際社会からの指弾も拒否しているのです」「馬鹿な、攻撃を甘んじて受けろと言うのか」韓国の前政権、中国に続いてロシアまで同じような詭弁を弄するようになったのを聞いて立野官房長官は独り言を吐き捨てた。
「日本国がここまで傲慢な態度を取るのであれば我が国も引き続き中国と共同で懲罰を加えなければなりません」ここで大佐は軽く身体をほぐすような仕草をした後、急に表情を険しくして話を再開した。これでは厳しい顔が演技なのが見え見えで完全に大根役者だ。
「次回は爆撃機による攻撃に切り替えますが、我が国の攻撃が国際法上の正当行為であることを確認させるため極東地区に滞在している日本人を同乗させることにします」「そう言う名目を着けたか・・・」立野官房長官はKLMオランダ航空321便の強制着陸を受けて双木外務大臣が諜報活動を活発化させた在ロシアの外交官が政権中枢から入手した情報で日本人を爆撃機に同乗させる案が検討されていることを知った。その時は「まさか」と言う常識が勝っていたが続いてシベリアからオランダに帰った日本人の国際刑事裁判所の次席検察官からも同じ情報が届き、現実に起こる事態として認識するようになった。報告を受けた石田首相はこれ以上ないほど鎮痛な様子で聞いていたが、腹を括ることなく臨んだ閣議では釜田防衛大臣の「航空自衛隊のスクランブル機に強制着陸させる」と言う方針に同意した。しかし、前回の在任中に生起した崇神作文騒動で制服組嫌いになっている釜田防衛大臣は内局の官僚の取り巻きにだけ相談して実際にロシア軍機と対峙する現場の見解は確認していない。それでも首相の承認を得た防衛大臣の命令は現場に強制される。
「今頃、記者たちもスマホで見ていますね」「そうなると質問を受けることになるが、前回の閣議は可能性を前提にしていたからな。現時点では政府としての見解を述べることはできないと逃げるしかないよ」ロシア軍の発表は記者会見ではなかったようで質疑応答はなく一方的に打ち切った。立野官房長官としてはそんな対応が羨ましい。廊下に出ると今度はユックリとした歩調で廊下を歩きながら秘書官と小声で話し合った。
「官房長官、我々もロシア軍の発表を見ました。そちらの質問をお願いします」会見室に戻って壇上に登ると案の定、最年長の記者から要望が飛んだ。他の記者も視線で圧力をかけてくる。予想していたとは言え立野官房長官の背筋には汗が滲んだ。
「私もたった今、テレビで見たばかりですから発言が公式になるこの場で私的見解を述べることはできません」「長官の個人的見解なら良いんでしょう。そちらでお願いします」ここは断固拒否すべきか迷ったが立野官房長官は重くうなずいた。
「A日新聞の内山田です。日本政府は福田赳夫政権の『人命は地球よりも重い』を公式見解にしていますが、それは継続するんですね」「あれは平時のハイジャック事件の人質についての見解です。有事に準ずる事態に直面している現在と同列に述べることは適当ではありません」「日本人、国民を殺す気なんだ」「戦争を始める気だな」立野官房長官の答えが池に投げ入れた小石になったように記者席には波が立った。
- 2022/12/06(火) 13:49:02|
- 夜の連続小説9
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