「大臣、ロシアが先ほど日本人を爆撃機に同乗させると発表しましたが」同じ頃、市ヶ谷地区の防衛省の正面ロビーでは緊急閣議に向かう釜田防衛大臣が待ち受けていた防衛省記者クラブ所属の記者たちの囲み言取材を受けていた。
「今からその問題に関する閣議が開かれるんだ。質問に答えるのはそれからだ」釜田防衛大臣も本来は今朝発令されたJアラームの説明だった立野官房長官の記者会見のテレビ中継は見ていたが、唐突に中座すると国営放送が緊急放送としてロシア軍の発表に差し替えた。
「大臣は先日、航空自衛隊に対して日本人が同乗していることが明らかなロシア軍機は撃墜することなく強制着陸で対処せよと極めて人道的な命令を出されたそうですがそれは変わりありませんね」「当前、人道的対応は堅持する」テレビでは30分近くの不在の後、会見場に戻った立野官房長官と記者たちの質疑応答になったが、そこに閣議招集の連絡が入ったため釜田防衛大臣は立野官房長官の回答は聞いていなかった。
「大臣は急いでいるんだ。失礼する」記者たちの表情に勝ち誇ったような色が走ったのを見て大臣秘書官が人垣の外から声をかけた。大臣秘書官は釜田防衛大臣に臨時閣議招集の電話を取り次いだ後、テレビ中継を見ていたので立野官房長官の回答を聞いていたのだ。
「大臣、官房長官は『福田政権の人命は地球よりも重いと言う政府見解は平時のものだ。今は有事に準ずる事態なので同列に述べることは適当ではない』と答えられました」「何ッ、それは総理の意向なのか」大臣車が走り出すと大臣秘書官は会見の要点を説明した。釜田防衛大臣が激怒することは予測していたが首相官邸に着いて再び記者に囲まれた時に同じ過ちを繰り返さないための予防措置だった。案の定、釜田防衛大臣は運転手が驚くほどの大声を出した。
「多分、官房長官個人の見解でしょう。発言の後に毎回『私の個人的見解ですが』と付け加えておられましたから」「アイツの個人的見解ならどうでも良い」大臣秘書官の補足説明に釜田防衛大臣は何故か安堵したように唇を歪めて笑顔を作った。釜田防衛大臣にとっては石田首相とマスコミの機嫌を損ねないことが判断基準であって他の閣僚などは損得勘定だけでつき合っているのだ。この人物を日本が有事=戦争に向って流れ込んでいく時期に防衛大臣に据えた石田首相の人事は海上自衛隊が揶揄する通り、失策人事の連発で敗戦を招いた島田繁太郎海軍大臣以上に罪が重い。島田海軍大臣は戦時にも平時と同じ海軍兵学校と海軍大学校の期別と卒業序列で艦隊司令官を選任したが、石田首相も派閥の均衡と過去の経験だけで前回、大失策を犯して隊員の信頼を失っている釜田防衛大臣を復帰させたのかも知れない。
「海上自衛隊は現在、発令されている海上における警備行動を根拠に警察権の緊急避難として弾道ミサイルを迎撃しました。航空自衛隊も同様に対領空侵犯措置による警察権の行使で撃墜できるでしょう」「ロシアの爆撃機が目標にすると発表した自衛隊施設も我が国の領土の一部であって平時に攻撃を受ける理由はありません。国連憲章が認める自衛権の発動としても武力行使は可能です」臨時閣議は双木外務大臣と立野官房長官が議事を主導していた。2人は例え日本人が爆撃機に同乗させられていても国土防衛のためには撃墜することも止むを得ないと言う政治決断=覚悟を固めているようだ。しかし、石田首相以下の閣僚たちは無言で机を見ているばかりで顔も上げない。視線が合えば発言を求められることが判っているのだ。平時の政治家である閣僚たちにとって「日本人の殺害許可」に賛同することは慮外の沙汰らしい。
「防衛大臣が航空自衛隊に出した強制着陸の命令は公式なモノなんですか」ここで双木外務大臣が釜田防衛大臣を会話に引き摺り出した。釜田防衛大臣は防衛省を出発する時、記者たちに「強制着陸の命令を人道的対応として堅持する」と明言してきた。しかし、あの囲み取材は中継ではなかったのでまだテレビでは流れておらず、大臣秘書官にニュースでの放映と新聞への掲載を差し止めるように指示してある。この身のこなしは父親直伝だ。
「公式な命令ではなく口頭での指示ですが、内局の官僚がメモのような文書にして航空自衛隊に部隊配布させたようです」「大臣指示ですね。現場としてはかなり強制力を持ちますな」釜田防衛大臣の説明を防衛大臣も経験している双木外務大臣は正確に理解した。実際、メモのように配布される大臣指示は公式な文書ではないが、隊員にとっては防衛大臣に直接声を掛けられたような気分になり、かなりの強制力を発揮する。
「それは取り消していただかないと・・・」「対領空侵犯措置の発令権者は私だ。君は職権を侵害するのか」立野官房長官の提案に釜田防衛大臣は声を荒げた。これは職務権限の侵害と言うよりも面子を潰されることへの立腹だった。
「総理」「こんな時だ。それぞれの職務に全力を傾注してくれたまえ」立野官房長官が仲裁=釜田防衛大臣への命令を求めると石田首相は完全に期待を裏切った。
- 2022/12/07(水) 14:35:23|
- 夜の連続小説9
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