「マジだったんだな」「うん・・・」対領空侵犯措置の緊急発進に備えている航空自衛隊のスクランブル機格納庫のパイロットの待機室でも立野官房長官の記者会見の中継から切り替わったロシア軍の発表の放送を見ていた。テレビの横の壁の掲示板には釜田防衛大臣の「日本人が同乗していることが明らかなロシア軍機は撃墜することなく強制着陸で対処せよ」と言う大臣指示が貼り付けてあり、内局の官僚は公文書の書式を崩して言葉の部分の文字を拡大しているので視界に入れば否応なしに目に飛び込んでくる。
「しかし、日本を攻撃してくるボンバー(爆撃機)には当然、ファイター(戦闘機)のガード(護衛)がついているんだろう。ダクト(空中戦)しながら強制着陸なんてできるはずがないじゃないか」「俺たちはロック・オン(目標固定)した段階でASM(空対空ミサイル)を射つからその前に敵の編隊のボンバーとファイターを識別しなくちゃいかんぞ」「それはディレクター(兵器管制指令官)にお願いするしかないな」この議論は釜田防衛大臣の口頭指示が文書して配布されて以来、全国各地の戦闘航空団のパイロットや警戒管制団の兵器管制指令官の間で激論を巻き起こしている。しかし、どこの部隊でも結論は出ず、「地上レーダーで捕捉したシンボル(航跡)に警戒管制団が付与する識別番号を戦闘に移行してからも維持して攻撃する」と言うのが航空総隊が示した現実的で精一杯の対策だ。
「これでボンバーを撃墜しちまうと日本人を殺すことになるんだよな」「最近のネットじゃあシベリアにいる日本人の個人情報がダダ漏れだから顔まで判ってるんだ。トリガー(操縦桿の引き金)を引く時、顔が浮かんじまいそうだ」シベリアに強制着陸させられたKLMオランダ航空321便の日本人1名とオランダ人の乗員乗客だけが解放されるとインターネット上では日本人だけが残置された理由が話題になった。そこで湾岸戦争の時にイラクのサダーム・フセイン大統領が発表した多国籍軍の攻撃目標になる重要施設に外国人を配置する「人の盾」をロシア軍も模倣するのではないかと言う憶測が提言された。すると急速に議論が激化して「爆撃機や輸送機に同乗させれば航空自衛隊の迎撃を封殺できる」と言う無責任な意見が広まった。同時に残置された日本人の氏名や年齢、家族構成と住所に職業、学歴から顔写真まで次々に書き込まれている。それを知った石田首相は在ロシアの外交官が「実際に日本人の同乗が検討されている」との情報を入手しても公式発表させなかった。
本来は政府が公式発表していない以上、航空自衛隊は高まる緊張に対応した措置を粛々と進めれば良かったのだが、崇神作文騒動を根に持つ釜田防衛大臣が航空自衛隊を叩くことがご機嫌取りになることを知っている内局の官僚は大臣指示として利用した。
「何年か前に見た『坂の上の雲』で児玉源太郎が乃木の旅順攻略作戦計画の修正を求めた話があっただろう」「防府の航学隊時代の下宿の親父は『司馬は軍神・乃木閣下を愚将にしている』ってエラク嫌ってたけど『花神』では村田蔵六を天才的偉人として描いてるんだよな」「児玉源太郎だって山口県人だろう」航空学生出身のパイロットは山口県の防府北基地の航空学生教育隊で基礎教育を受けるのだが、第2次世界大戦を含めて幕末・明治以降の歴史を全て手放しに賞賛しなければ納得しない山口県人にとって「坂の上の雲」は、先ず戊辰戦争における敗者である伊予松山の秋山好古陸軍大将、秋山真之海軍中将が主人公であることが気に入らず、例え山口県人の児玉源太郎大将を絶賛していても乃木愚将の失策の数々を披瀝していることは我慢ならない冒瀆なのだ。俳人も正岡子規ではなく種田山頭火でなければならない。
「児玉源太郎は旅順要塞を攻撃中に28サンチ榴弾砲で援護射撃を加えるって言ったじゃあないか」「第3軍の参謀が『陛下の赤子(せきし=子供)を陛下の砲を以って射つことはできません』って言った場面だな」児玉源太郎大将は敵の反撃を封じるだけの援護射撃もなく突撃を繰り返す第3軍の攻撃方法に対して要塞砲=28サンチ榴弾砲による援護射撃を命じた。これに対して第3軍の参謀は絶大な威力を持つ要塞砲による援護射撃の損害が突撃する日本軍にも及ぶことを危惧して疑問を呈した。
「あの時、児玉は『これ以上、この無謀な作戦を続けていくよりも28サンチ榴弾砲で被る損害の方がはるかに軽微だ』って否定したじゃないか。結局、ロシア軍の爆撃機に攻撃させれば殺される日本人や破壊される施設の損害は同乗している1人の日本人の人命よりもはるかに大きいと言うことだ」「つまり多くの人命、大きな利益を守るためには小さな損害は黙殺するのが戦争と言うことだな」エレメント(僚機)の返事を聞いてパイロットは立野官房長官の質疑応答に戻った国営放送の記者会見中継を注視した。このような冷厳な費用対効果の計算は軍人に限らず国際社会に於いては全ての状況判断の基本中の基本だが、平成以降の日本では極少数の利益・権利が全体よりも優先されるようになっている。当然、戦争はできない。
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- 2022/12/08(木) 15:35:14|
- 夜の連続小説9
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