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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月9日・獄中小説家の先駆け・正田昭死刑囚の刑が執行された。

昭和44(1969)年の12月9日にバー・メッカ殺人事件の主犯で死刑確定後に小説を執筆するようになり、最初期の作品「サハラの水」が小説雑誌・群青の新人賞候補になった正田昭(しょうだあきら)死刑囚の吊首刑が執行されました。40歳でした。
正田死刑囚は昭和4(1929)年に大阪市住吉区で弁護士と教師夫婦の兄3人、姉2人の6人兄姉弟の末っ子として生れました。ところが生後5ヶ月で父親が亡くなって母親の収入で生活することになると教師の給与では6人の子供を育てるのに無理があったのか異常に金銭に執着するようになり、それに嫌気が差した長兄が家庭内暴力を奮うようになったのです。敗戦後の昭和22(1947)年に旧制・住吉中学校を卒業しましたが、旧制・高等学校の受験に2度失敗して長兄からの暴力から逃れるように慶応大学経済学部予科に入学して上京しました。大学で1歳年下の女性と交際しましたが友人から「多くの男友達の1人過ぎない」と教えられて失望し、それからは麻雀やダンスにうつつを抜かす自堕落な生活に堕ちて浪費癖が身に着いてしまいました。
大学卒業後は日産自動車に就職が内定しましたが健康診断で肺浸潤と診断されて取り消されたため腰掛けのつもりで中堅の証券会社に就職しました。ところが交際していた女性の叔母を得意先にして資金を運用している間に顧客からの預り金や株券を遣い込んだことが発覚して入社2ヶ月で解雇されると交際相手の叔母から預った資金だけは返却しようとバー・メッカのボーイ2人と共謀して昭和28(1958)年7月下旬に証券ブローカーの男性を撲殺して現金41万円(現在の820万円から1025万円に相当する)を奪ったのです。ところが遺骸をバー・メッカの天井裏に隠したため血が滴り落ちて発覚して3人は指名手配され、間もなく共犯者2名は出頭しましたが正田死刑囚は逃亡を続け、10月12日に京都で逮捕されました。逮捕後は「ただナット・ギルディ(無罪)を主張するだけです」と占領下らしい台詞を吐き、逮捕時の垢抜けた容姿(下駄履きだったが)と悪ぶれる様子を見せない態度も合せてアプレゲール(戦後派)事件と呼ばれました。
裁判ではまだ永山則夫(後進の死刑囚の小説家)基準がなく法廷での不遜な態度と被害者の遺族に一切謝罪しなかったことなどで検察・裁判官の心象を害し、共犯者が懲役10年と5年だったのに対して昭和31(1956)年の1審で死刑、昭和35(1960)年の2審は控訴棄却、昭和38(1963)年の最高裁判所も上告棄却で死刑が確定しました。
拘置所では教誨師のフランス人神父の洗礼を受けてからは模範囚になり、女性との文通交際で人としての心を取り戻す一方で作家・加賀乙彦さんが小説(後の「宣告」)の取材で何度も面会に訪れたことで自分も小説を執筆するようになり、前述のように専門家の間では高く評価されていたようです。なお、加賀乙彦さんは正田死刑囚の真摯な信仰に接したことでカソリックに入信して洗礼を受けています。最期の言葉は「小木(=加賀乙彦)先生によろしくお伝え下さい。アーメン」だったそうです。
余談ながら2021年10月に正田死刑囚の未発表作品「マーブル・アーチ」「二少年」「夜の音」「明日の虫」「明日の湖」「秋夜」の6編と11編の詩が発見されました。
  1. 2022/12/09(金) 14:22:29|
  2. 日記(暦)
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