昭和45(1970)年の12月11日に小説・映画・テレビドラマ「復讐するは我にあり」のモデルになった西口彰(小説などでは榎津巌)死刑囚の吊首刑が執行されました。なお、この題名は新約聖書・ローマ人への手紙の12章19節の「愛する者よ自ら復讐するな。ただカミの怒りに任せまつれ。録して『主いひ給う、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」から採っています。
西口死刑囚は大正14(1925)年に大阪の敬虔なカソリックの家庭で生まれましたが、両親、特に父親からの信仰の強要に反発して非行に走り、やがて「俺は千一屋だ。千に一つしか本当のことは言わない」と豪語する名うての詐欺師になりました。そんな急速に整備が進んだ公共交通機関を利用した全国を股にかけた詐欺師としての生活を送っていた昭和38(1963)年に福岡県京都郡苅田町と田川郡香春町で男性2人の遺骸が発見されたことで前科4犯の西口死刑囚が浮上し、全国に指名手配されました。
西口死刑囚は女連れで泊った福岡市内の旅館で読んだ朝刊で指名手配されていることを知り、さらにラジオで「警察は関西方面に逃亡したとみている」と言っていたために九州・四国に潜伏することを決め、佐賀県内の唐津競艇で21万円を稼ぐと行橋署に自死を表明する手紙を送ると宇高連絡船の瀬戸丸に乗り、甲板に靴を揃えて置き、遺書を書き残して自死を偽装しました。しかし、海上保安庁の綿密な捜索でも遺骸は見つからずが警察は捜査を継続しました。その頃、西口死刑囚は静岡県浜松市の貸席「ふじみ」に京都大学教授と称して連泊しました。この時は黒ぶちの眼鏡をかけてインテリを装い、「ふじみ」から静岡大学に電話をかけるなどの偽装をしています。続いて広島市、山口県徳山市、静岡県沼津市を渡り歩きますが、広島市では電気店でテレビを騙し盗って質入れして金を稼ぎ、徳山市の旅館では若い女中を抱いています。そうして「ふじみ」に戻ると女将は自分の部屋に泊めましたが、小説などでは女将の母親に見破られたため2人を殺害した上、家探しして宝石や貴金属などを全て奪って逃亡しました(電話の加入権まで売っている)。
その後も詐欺を繰り返して逃亡を続けますが、相手が疑うことなく容易に大金を騙し盗ることができる弁護士を装って保釈金や罰金を奪う手法が増えて、弁護士バッジや訴訟書類などの必要品を奪うため高齢の弁護士を殺害しています。これで5人目になりました。
ところが昭和39(1964)年に教誨師として受刑者の支援に当たっている熊本県玉名市の寺に住職を訪ねると「冤罪被害者の支援活動に協力したい」と申し出ましたが、10歳の次女が同級生と同じ名前の西口死刑囚の手配写真を登下校時に注視していて瓜二つであることを訴えたため姉と母が手配書にある特徴の顔の痣を確認して西口死刑囚が眠ってから警察に通報したのです。翌朝、西口容疑者が寺を出たところを包囲していた警察官が逮捕しましたが、78日間の逃亡中に動員された12万人の警察官よりも10歳の少女の目の方が鋭かったことになりました。
福岡拘置所で刑が執行される時の最期の言葉は「遺骨は別府湾に散骨して下さい。アーメン」だったそうです。カソリックへの信仰を取り戻したとは思えませんが・・・。

映画「復讐するは我にあり」浜松市の置屋の女将役の小川真由美さん
- 2022/12/11(日) 14:50:07|
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