昭和52(1977)年の12月13日は女優・薬師丸ひろ子さんの出身校である玉川学園の創設者で訃報を聞いた福田赳夫首相に「大隈重信、福沢諭吉、そして小原国芳と教えられるべき存在だった」と並び評された小原國芳先生の命日です。90歳でした。
小原先生は明治20(1887)年に現在の鹿児島県南薩摩市坊津町の祖父が寺小屋を開いていた家庭に生まれました。家が没落したため進学できず13歳になって通信技術養成所に入り、鹿児島大浜海底電信所の技手になりましたが、向学心が抑え切れず18歳で退職して鹿児島師範学校に入学しました。そこで関心を持っていたキリスト教を学ぶために訪ねた教会で洗礼を受けるとそのおかげなのか父親の借金返済問題から郷里の富豪・鰺坂家の養子になって22歳で広島師範学校英語科に進学することができたのです。
大正2(1913)年に師範学校を卒業すると香川師範学校の教諭になったものの大正4(1915)年に29歳で京都帝国大学文学部哲学科に進学し、卒業後は広島師範学校に戻って付属小学校の教諭になりましたが、大正8(1919)年には京都帝国大学で学長として強権を奮ったことで解任された澤柳政太郎さんが陸軍士官学校の予備校と評されていた成城学校(旧制中学校と高等学校)の校長になり、新たに「教育上の問題点を実験的に研究して解決する」実験場として小学校を創設するに当たり、小原先生を主事(訓導)として招聘されたのです。成城学校は小原先生自身にとっても教育理念を確立する勉強の場になり、大正10(1921)年には大日本学術協会主催の「八大教育主張後援会(講師が8人だった)で「全人教育」を提唱しました。「全人教育」とは人間文化の6つの要素「学問」「道徳」「芸術」「宗教」「身体」「生活」を「真」「善」「美」「聖」「健」「富」の理想で調和的に支える「全き人間(=完全な人間)」を育むもので、小原先生が教育者として探究し続ける人生の主題になりました。
大正15(1926)年に成城高等学校の校長に就任すると現在の成城学園駅を誘致して駅前を宅地造成することで利益を上げ、それを元手にして学校施設を拡充する驚くべき経営手法を実践しました。ところが交通の便が良くなって優秀な生徒が集まるようになった成城学校の進学実績が向上すると生徒や親だけでなく教師まで陸軍士官学校や帝国大学の受験対策に熱意を注ぐようになり、現代を先取る進学予備校化していったのです。
そこで昭和4(1929)年に自分の理想を追求する場として玉川学園を創設すると成城高等学校と同じ手法で学校施設を整備し、現在では幼稚園・小学部・中学部・高等部・大学・大学院を有する総合学園になっています。
小原先生は「教壇で死にたい」が口癖でしたが亡くなる数カ月前まで点滴を受けながら大講義室の壇上で熱弁を奮っていたそうです。小原先生の教育者としての偉大さを示す逸話としては昭和35(1960)年10月12日に発生した浅沼稲次郎刺殺事件の実行犯・山口二矢くんが卒業生(陸上自衛隊の幹部だった父親の転勤で北海道の光星学園に転校したが1人で戻って復学した)であることを認め、教え子として支援したのに対して聴講生だった大東文化大学は在籍を全面否定する新聞広告を出しています。
- 2022/12/13(火) 15:45:27|
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