fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月16日・三島由紀夫=平岡公威の父・平岡梓の命日

昭和51(1976)年の明日12月16日は作家・三島由紀夫=本名・平岡公威(きみたけ)さんの実父で、自刃後に「倅・三島由紀夫」を刊行してある意味情けない実像を周知することで神格化されることを防いだ平岡梓さんの命日です。82歳でした。
梓さんは明治27(1894)年に福島県知事や樺太庁長官を務めた内務官僚の一人っ子の長男として生れました。父親は地方への単身赴任が多く、東京の士族出身で大審院判事の娘の母親に育てられました。明治45(1912)年に開成中学校を卒業しましたが2浪したため神経衰弱気味になり、哲学書や文芸書を読んで紛らわしたようです。
大正3(1914)年に旧制・第1高等学校に合格すると東京帝国大学法学部法律学科に進みました。2浪なので卒業年次は違いますが第1高等学校からの東京帝国大学の同期生には岸信介後の首相がいます。また東京帝国大学時代、友人の友人として「目玉ばかりがバカでかい貧弱な1高生」だった後の公威さんの師・川端康成先生に会っています。
大正8(1919)年に高等文官試験に1番の成績で合格しましたが、志望した大蔵省は面接で断られ、農商務省に回されました。ここでも岸首相と同期でしたが官僚としての勤務態度=能力と上司・同僚からの評価は真逆でした。
大正13(1924)年に漢学者の娘と結婚すると現在の東京都新宿区四谷にあった陸軍軍医が建てた和洋折衷の豪邸で1階に両親と女中6人、書生1人、下男1人、2階に新婚夫婦の同居生活を始めました。ところが大正1(1925)年1月に公威さんが生まれると母親が「2階で赤ん坊を育てるのは危険だ」と言って奪い取り、妻を授乳に通わせながら人形遊びのように女児として育て始め、長女と二男が生まれて現在の新宿区信濃町の借家に転居してからも数軒離れた別の借家に転居した両親が公威さんを手元に留めました。結局、公威さんは学習院中等科1年になっていた昭和12(1937)年に梓さん一家が渋谷区松濤の洋館の借家に転居するまで両親と別居していたのです。
父親としての梓さんは女児として育てられている公威さんに蒸気機関車を間近で見せて迫力を体験させ、猫を可愛がるのを「女々しい」と嫌って捨てても次を拾ってくるので鉄粉を呑ませて殺そうとするなど常道を踏み外した教育を繰り返しましたが、ある時、いつも塀の穴から覗いているため見たところ近所の子供たちが相撲や野球をして遊んでいたのでそれからは相撲の相手をしたそうです。後に公威さんは梓さんとの対談で幼児からの別世界への羨望や悲哀が三島文学の底流にあることを認めました。
ところが公威さんが東京帝国大学生になると農林官僚の自分を見下している大蔵官僚にしようと躍起になり文学に反対して書きかけの原稿を破り捨てましたが、徴兵が近づくと形見として作品を求めるようになり職場の広報誌用の原稿用紙を与えようになりました。
そんな梓さんですから公威さんが本籍地の兵庫県加古川市での徴兵検査で妻=生母に伝染された風邪の高熱による血枕検査の結果を肺浸潤と誤診されて不合格になると大喜びで帰ったそうです。ただし、この愛国心が欠落した態度への劣等感も公威さんの晩年の「憂国」行動に影響を与えたとされています。
  1. 2022/12/15(木) 13:45:02|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ339 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ338>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8110-72dc5beb
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)