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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月17日・昭和の陛下が選んだ最高の軍人・山梨勝之進大将の命日

昭和42(1967)年の12月17日は昭和の陛下が敗戦直後に行われた文芸雑誌の文人たちとの対談で「陛下に仕えた重臣や軍人の中で最も篤く信任した人物」を問われて「山梨勝之進」と即答された山梨勝之進大将の命日です。90歳でした。
山梨大将は明治10(1877)年に現在の宮城県仙台市青葉区八幡(生家の跡地は3分の2が宮城第1高等学校、3分の1が尚絅学院になっている)で元伊達藩士の長男として生まれました。そのためなのか同じ仙台市出身の井上成美大将と風貌が共通しています。
宮城英学校を経て海軍兵学校に25期生として入営し、明治30(1897)年の修了時は首席が後に言語学と民俗学の大家になる松岡静雄大佐で山梨大将は次席でした。海軍軍人としては宮城英学校で身につけた英語力を買われてイギリスで建造した戦艦・三笠の回航に参加し、帰国後は旧式戦艦(元々は機帆船の小型艦だった)・扶桑に航海長として乗り組んで日本海海戦に参戦しています。日露戦争が集結した明治39(1906)年に海軍大学校に入校し、翌年の修了後は舞鶴鎮守府参謀を経て同じく伊達藩士の息子の斎藤實海軍大臣の副官兼秘書官になり、首相だった山本権兵衛大将や後に首相になる岡田啓介大将と親交を持ったことで卓越した軍政家としての素地を身につけました。
その材料になったのが第1次世界大戦後の大正10(1921)年に締結された海軍軍縮条約で、主力艦の保有制限を決めるワシントン会議では加藤友三郎全権大使を補佐して条約の締結を実現し、帰国後は武闘派=艦隊派の強硬な反対に果敢に立ち向かって批准に漕ぎ着けました。続いて昭和5(1930)年に開催された補助艦の保有制限を決めるロンドン会議では中将の海軍次官でしたが、財部彪海軍大臣が全権大使だったため不在間の代行を勤め、武闘派が仕掛けてきた「統帥権の干犯」問題では「憲法解釈は枢密院の権限である」と軍人による議論そのものを否定し、加藤寛治連合艦隊司令長官に次ぐ武闘派の首魁・末次信正軍令部次長に「山梨のごとき知恵のある人物には敵わない」と言わしめています。しかし、武闘派の神輿だった東郷平八郎元帥や伏見宮博恭元帥からは「山梨は軍服を着ているのか」と揶揄されるほど嫌われ、大将に昇任した後は佐世保と呉の鎮守府司令長官を歴任して海軍大学校の同期の大角岑生海軍大臣によって堀悌吉中将と共に予備役に編入されました。この悪名高き大角人事について山梨大将自身は「軍縮のような大問題は犠牲なしには決まらない。自分が犠牲になるつもりでやったのだから少しも怪しむ(=不満に思う)ものではなない」と所見を述べています。
予備役編入後は平成の天皇を受け入れる学習院の院長になり(昭和の陛下の時は乃木希典大将)、「全人教育」を提唱した玉川学園の創立者・小原国芳先生を支援しました。また敗戦後は82歳から死の前年の89歳まで海上自衛隊幹部学校で年に1回、戦史の講義を行いましたが、午後1時から4時までの予定が毎回6時過ぎまで続き、その間、山梨大将は直立の姿勢を崩さなかったそうです。この講話は速記されて「歴史と名将」と言う題名で刊行されています。大量の蔵書は海上自衛隊幹部学校に寄贈されて現在は航空自衛隊目黒基地で同居しているため野僧は入校時に手に取りました(洋書と漢籍が大半でした)。
  1. 2022/12/17(土) 14:20:09|
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