「道(どう)から道北、道東にお住まいの道民の皆さまに緊急指示が出ました。道内の公立小中学高校は本日の午後から休校とします。今後は各市町村の指示に従って速やかに避難して下さい。交通手段は札幌から終点まで往復する列車か私有車になります。私有車は道路の渋滞が予想されますので列車が利用できない地区の皆さまに限定します。対象地区は道北の稚内市、猿払村、豊富町、幌延町・・・です」ロシア軍の攻撃で稚内と根室のレーダー・サイトが破壊されると北海道庁は道北と道東の道民に札幌以南への避難を指示した。日本国憲法は政府に対してでさえ緊急事態の強権発動の権限を付与していていないので都道府県や市町村の地方自治体も指示以上の強制力を持つ命令は認められていない。そのため緊急指示を伝えるテレビ放送も北海道には来ない台風の気象情報と変わらなかった。
「照子、道が避難指示を出したぞ」居間でテレビを見ていた両親は2階の自室のパソコンで北海道での戦況を書き込んだインターネットを検索していた照子を呼び寄せた。階段を下りて居間に入ると両親はテレビの前で夫婦会議を開いていた。
「ワシたちは残って牧場を守るがお前は日和と周作を連れて叔父さんたちの家族と一緒に逃げろ」「お母さんは」「女が1人もいなくなったらお父さんたちは何もできないわ。私は残ります」これが短時間で話し合って出した結論らしい。つまり母だけを残して照子と日和、周作は叔父たちの妻と子供と一緒に避難させるつもりなのだ。
「私はここで謙作さんが還ってくるのを待つわ。日和と周作は旭川空港からなるべく西に向かう旅客機に乗せて愛媛のお義父さんにお願いするつもりよ」照子も階段を下りて居間に入るまでに考えた対応を説明した。しかし、緊急事態の中、民間の旅客機が運行しているのか、今から航空券が取れるのかは当然確認していない。
「謙作は稚内の航空の高射特科群の警備に行ってるんだったな。昨日、不審者を射殺したのは謙作の部隊の隊員だった」父も名寄駐屯地に所在する地対空ミサイル=改良ホークの第4高射特科群は知っているのでかえって間違えた。地元紙では昨夜の稚内のレーダー・サイトへの攻撃は朝刊に間に合わなかったため昼の航空自衛隊の高射部隊の展開地での不審者射殺を大きく取り上げていた。当然、個人名は伏せられていたが部隊名は載っていた。
「駄目だ。お前も樺太で日本の開拓団の女性たちがソ連軍に強姦された話は知っているだろう。お前もまだその対象になる」「私は対象外だから殺されるだけ」父の説明に補足した母は不思議な笑みを浮かべて肩をすくめた。広橋牧場では敗戦後に樺太から引き揚げてきた家族を住み込みで雇っていたが、機会を見つけては少年だった父に悲惨な体験と日本軍の勇戦を語って聞かせ、学校の共産主義に傾倒する教師の洗脳教育を打ち消してくれた。樺太と千島の日本軍は北部軍管区司令官・樋口季一郎中将の指揮の下、日本の敗戦によって生還・帰郷できることを知りながら侵攻してきたソビエト連邦軍に徹底抗戦し、北海道上陸を阻止した。
「いよいよ陸上自衛隊も出動するらしいから謙作は当分、還れないだろう。愛媛のご両親もお前が戦地に残っていては息子と2人分心配しなければならない」父はこの場所を「戦地」と呼んだ。今朝、道北を守備する第2師団や北部方面隊直轄の陸上自衛隊は名寄・旭川・遠軽・留萌・上富良野の駐屯地を出て各地に展開した。本来は防衛出動待機命令が発令された時点で陣地構築に着手しなければならないのだが土地の接収手続きは平時と変わりなく、打診すれば即座に反対派の弁護士や市民団体が介入するため今日まで先延ばしにしていたのだ。
かつては稚内に上陸したソビエト連邦軍は国道40号線を旭川に向かって南下すると考えられていた。そのため国道40号線が山岳地帯を抜けるのに車両が1列にならざる得ない音威子府の盆地が阻止の要衝、激戦地になるとされていた。ところが現在のロシア軍は戦車を中心とする機動部隊の侵攻に先駆けてヘリコプターによる奇襲戦術を常用しているため陸上自衛隊としても戦力を分散させざるを得ない。むしろ地対空ミサイル=改良ホークの高射特科群や機動力が欠落した81式短距離地対空ミサイル=短SAMの第2高射特科大隊だけではなく普通科連隊の携帯SAMも防空任務が期待されている。
「広橋さん、協力をお願いします」その時、玄関の前に4輪駆動車と思われる車両が横付けしたエンジン音に続き、2重扉の引き戸を開けた男性の声が聞こえてきた。両親と照子が出るとそれは完全武装した陸上自衛隊の2尉だった。
「この牧場は視界が良いので携帯SAMには最適なんです。隊員2名を配置させてもらえませんか。当然、攻撃目標になる危険性は生じますが」この口ぶりでは即応予備自衛官の自宅なのを知らない飛び込みの協力要請らしい。自衛隊に協力すれば文民保護の権利を失うことを説明する態度は立派だが、自衛官の家族としては「これで大丈夫なのか」と言う不安も否定できない。
- 2022/12/21(水) 14:48:06|
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