「これを列車の屋根や窓に貼れ」JR北海道が道内各地に置く車両基地では北海道庁の避難指示を受けて道北と道東の住民を運ぶための準備に着手した。手始めは車両の屋根と窓の内側にオレンジ色に青色の正三角形を描いたジュネーブ条約第1追加議定書が定める「シビル・ディフェンス(文民防護)」の記章を表示することからだった。
北海道庁ではロシアが安全保障会議で中国の日本に対する懲罰制裁に参加する可能性を示唆した段階から武力侵攻に備える研究に着手していてJR北海道にも避難列車の運行ダイヤの策定を要請していた。このプラスチック製、裏面マグネットで貼りつけるシビル・ディフェンス記章も道庁が各市町村と札幌市の区を含む公用車用として大量に作成してJR北海道にも提供した。ただし、列車の屋根や外壁は軽量化と防錆のためステンレス製が一般的なので強力なビニール・テープで貼りつけなければならない。
「これって民間人用だってマークでしょう。赤十字じゃあないんですね」「赤十字は医療用や怪我人を乗せている救急列車になるんだとさ」車両の中央の窓にビニール・テープで記章のプラスチック板を貼りつけている若い職員が質問したので通路で作業を監督しているベテランが上司から聞いた知識を請け売りした。すると別の若い職員も参加してきた。
「白旗はどうですか」「あれは降参しましたってことだから避難とは違うんだ。今の知事は勉強家だから何かで調べたんだべな」確かに白旗は基本的に非戦闘行動の表示だが、戦闘員が降伏して敵の捕虜になる意味もあるので文民の避難列車には相応しくない。白旗の代わりに車両を白く塗れば雪中迷彩を施した軍用列車と誤認される危険もある。
「俺の祖父さんが言ってましたけどソ連軍は樺太で日本人の開拓村を襲って無差別に村民を殺しただけじゃなくて白旗や赤十字も無視して病院や救護テントを攻撃したそうです。そんな連中がこんなマークを知ってますかね」「知ってなくてもこのマークを付けた車両を攻撃すれば戦争犯罪になるんだと」「それでもウクライナでロシア軍が病院を攻撃したってニュースで言ってますよ」「アフガニスタンでアメリカもやったって言ってたな」「手が止まってるぞ」若い職員たちも北海道の危機には真剣に向き合っているようで質疑応答に熱中してしまった。それでもこの車両の窓に記章を貼りつける作業は終わって次に移動した。
「でも道北や道東に向かう下りに自衛隊が乗ったら民間人用じゃあなくなりますよ」「その時は剥がすんだな」次の車両の中央の座席に記章のプラスチック板の束を置き、ビニール・テープを伸ばしながら鋭い質問をするとベテランは苦し紛れに答えた。しかし、それではこの作業が無駄になってしまう。これでは自衛隊と北海道庁、北海道庁とJR北海道の連携不足が露呈した形だが、自衛隊は防衛出動待機命令が発令されて以来、道庁や市役所・役場の公務員労組の職員による妨害と情報漏洩に悩まされ続けているので連携には消極的で必要事項を伝え、質問に答えるだけだった。JR北海道も国鉄時代には日本での共産革命を策謀する国鉄労働組合の巣窟だっただけにその先入観から協力は求めなかった。
「1号列車は作業完了しました。いつでも出発できます」ベテランは掛けてある梯子で屋根に上り、作業を確認すると無線機で作業事務所の現場監督に報告した。JR北海道は大半がディーゼル車なので屋根が排気で汚れていて貼りつける前に拭き掃除した跡が残っていた。
「そうか、全員が行ってくれるんだな」「はい、全員に現在の状況を説明した上で意志確認しました」同じ頃、JR北海道本社では鉄道事業本部長が各運転所長から「職員は出発の指示を待っている」との連絡を受けていた。本部長としては昭和62年4月1日にJR(日本旅客鉄道)が発足して仕えた元運輸官僚の上司から聞いたイラン・イラク戦争での邦人救出に日本航空機を派遣しようとした時、パイロットやフライト・エンジニア、キャビン・アテンダント(客室乗務員)だけでなく整備員などの地上勤務員の労働組合までが「安全が確保されていない」と拒否したため(整備員は飛行する予定の機体の点検まで拒否した)、外国の航空会社に依頼した国辱的醜態を思い出していた。この列車はロシア軍の侵攻の危機の直面している地域から住民を避難させるために運行する。そのため運転士は無事に目的地に到着できる保障もないまま出発し、途中で攻撃を受ければおそらく満員になる乗客を保護する重い責任を負うことになる。本人に意志確認した各運転所長たちは対米英戦争末期に神風(しんぷう)特別攻撃隊の志願票をパイロットたちに配った上級士官のような思いだったはずだ。
JRが発足して間もなく半世紀、かつては北海道の共産化を公言し、革命闘争として過激な労働運動を繰り返していた北海道の国鉄の残滓は完全に払拭されているようだ。今の社員たちが抱いているのは鉄道マンとしての使命感と誇りだ。本部長は抑え切れない涙を流しながらインターホンのスイッチを押し、運行指令所に避難列車の出発を発令した。
- 2022/12/22(木) 14:09:29|
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