昭和23(1948)年の明日12月23日に対米英戦の開戦時の陸軍軍務局長に過ぎず、本来は「平和に対する罪」のA級戦犯(B級は通常の戦争犯罪、C級は人道に対する罪)になるような立場ではなかった武藤章中将の死刑が執行されました。57歳でした。実際、上司で1組として一緒に執行された東條英機首相は判決後に「巻き添えに遭わせて気の毒だ。まさか君まで死刑にするとは思わなかった」と詫びたと言われています。
武藤中将は明治25(1892)年に現在の熊本県益城郡菊陽町の地主の息子として生まれました。熊本の名門・済々黌中学校から熊本陸軍幼年学校に入り、大正2(1913)年に陸軍士官学校を25期生として修了しました。同期にはフィリピンで陸軍特別攻撃隊を指揮しながら軍用機で逃亡した富永恭次中将、インパール作戦の破綻を予見して師団を独断で撤退させた佐藤幸徳中将、全滅したアッツ島守備隊長の山崎保代大佐がいます。修了後は大分の歩兵第72連隊に配属され、大正6(1917)年には陸軍大学校に入校し、恩賜の軍刀を受けて卒業しました。卒業後は大正10(1921)年に陸軍士官学校の戦術教官に転属し、翌大正11(1922)年には陸軍次官の娘と結婚しました。
そして同年に教育総監部に移動すると翌大正12(1923)年に第1次世界大戦が終結したヨーロッパへの出張を命ぜられて現代戦の実像を視察し、大正15(1926)年にはアメリカへの出張を希望してさらに見識を深めました。ところが昭和3(1928)年の冬に赤痢に罹患して糖尿病を併発したことで体調・体力に不安を抱えるようになり、8月に少佐に昇任しても大隊長は希望せずに昭和5(1930)年に陸軍参謀本部に転属すると2部欧米課、1部兵站班、2部綜合班を歴任してから中支南支の視察と国際連盟脱退後の欧州視察を命じられました。
その後は陸軍省、関東軍、参謀本部を渡り歩いて昭和史の裏で暗躍することになります。陸軍省では2・26事件の処理を担当し、大不祥事を悪用して陸軍の政治介入を強める策略を巡らせ、関東軍では内蒙古への進出を画策し、参謀本部では盧溝橋事件や第2次上海事変、南京占領を大陸進出の足掛かりにするべく活動しました。しかし、これら策略も武藤中将の立場では上司である陸軍大臣・次官、満洲軍司令官・参謀長、参謀本部総長などの承認と決済、許可がなければ影響力の行使に留まり、もう1つの有罪理由とされた第14方面軍参謀長としてのフィリピンにおける文民と捕虜の加害・虐殺は山下奉文軍司令官が死刑になって罪を償っています。
武藤中将は相手構わぬ毒舌家、皮肉屋で人と組みすることを好まない傲岸不遜な性格だったため部下に「武藤ではなく無徳だ」と陰口を叩かれるほど嫌われていました。それでも能力があったため同様の野望を持つ人間には重宝されたのかも知れません。
また東京裁判では以前から敵対していた田中隆吉少将が検察側証人として陸軍内の暗部を暴露したことに怒り、「死刑になったら憑り殺す」と公言していて田中少将も武藤中将の亡霊に悩まされていることを告白しています。それでも辞世の句は「霜の夜を 思い切ったる 門出かな」「散る紅葉 吹かるるままの 行方哉」と闊達でした。
- 2022/12/22(木) 14:11:14|
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