昭和46(1971)年の12月23日に敗戦後に続発した幼児を誘拐して殺害した上で親に身代金を要求する凶悪事件の先駆けになった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の小原保死刑囚の吊首刑が東京拘置所で執行されました。38歳でした。
小原死刑囚は昭和8(1933)年に福島県石川郡石川町の農家の11人兄姉弟の10番目として生まれました。10歳の時、アカギレから細菌が入って骨髄炎を起こして手術を受けると骨が曲がって右足がいわゆる跛(びっこ)になり、そこで手に職をつけるため仙台市の身体障害者職業訓練所の時計課程を受講して市内の時計店に就職しましたが肋膜炎を患って実家に戻り、やがて時計ブローカーを始めると窃盗や横領を繰り返すようになり、前科を重ねていきました。
東京で暮らすようになっていた昭和38(1963)年3月31日の夕方に台東区の入谷南公園の公衆便所で水鉄砲に水が入らず困っていた幼児を見つけ、その水鉄砲がアメリカ製であることに気づいて身代金誘拐を思いつき連れ去ったのです。殺害方法については警察での供述では「連れ立った後に寺院の墓地へ行き、そこでベルトで首を絞めて殺した=殺意があった」、弁護士への説明では「アベックが来たので騒がれないように口を押さえたら死んでいた=過失致死になる」と全く異なり裁判でも争点になりましたが、遺骸を墓碑の下の遺骨を入れる空間に押し込みました。
建築業を営む被害者の両親は「子供が行方不明になった」と捜索願を出しましたが、4月2日の夜に犯人=小原死刑囚から身代金50万円を要求する電話が入り、警察は3年前の「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」で犯人が誘拐を報じる新聞を見て衝動的に殺害した悲劇を繰り返さないためにマスコミに対して報道自粛を要求しました。その後、小原死刑囚は4月7日に身代金50万円を奪うまで9回電話を掛けてきて声を録音されました。
4月7日の身代金の受け渡しでは母親が私有車で指定場所に向かったにも関わらず捜査員は徒歩だったので時間差が生じ、母親が置いて立ち去った身代金を奪って逃走する犯人にすれ違いながら現場への到着を優先して見逃す失態を犯しています。
それから連絡は一切なくなり、マスコミは警察が提供した犯人の声をテレビで流すなど全面協力し、ついにはボニ―ジャックスルが「返しておくれ今すぐに」と言う犯人に宛てたレコードを出す騒ぎになりましたが事態は動きませんでした。
2年後の昭和40(1965)年3月11日に捜査本部は解散し、8人の専従捜査員が捜査を継続すると事件後に巨額の借金を返済していたことから賽銭泥棒で逮捕・服役していた小原死刑囚が浮上し、地道なアリバイ崩しと「落としの八兵衛」の異名を取る平塚八兵衛刑事の心理的動揺を誘う事情聴取で自供を引き出して遺骸も発見されたのです。
裁判では国民の圧倒的な断罪世論を背景に昭和41(1966)年3月に1審で死刑判決が出ると11月には2審が控訴棄却、翌年10月に最高裁が上告棄却して死刑が確定したのです。首に縄を掛けられてから執行官に平塚刑事への伝言として「真人間になって死んで逝きます」、そして「茄子の漬物美味しゅうございました」が最期の言葉でした。
- 2022/12/23(金) 14:49:56|
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