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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月24日・大正自由主義教育の主導者になった澤柳政太郎の命日

昭和2(1927)年の12月24日は明治期に次官まで上り詰めた文部官僚から京都帝国大学の総長になるまでは強権を振り回していたもののそれで職を追われてからは一転して大正自由主義教育の主導者になった澤登政太郎さんの命日です。62歳でした。
澤登さんは慶応元(1865)年に信州松本城下で藩士の長男として生まれました。学齢になると長野開智学校下等小学校に入学して明治8(1875)年に東京師範学校付属下等小学校に転校し、その後は現在の日比谷高校に進学して(作家の尾崎紅葉さんや幸田露伴さんは同級生)、学制が改まった大学予備門を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学・卒業しました。卒業後は同郷の文部官僚の誘いを受けて入省する一方で東京専門学校=現・早稲田大学や哲学館=現・東洋大学で心理学や社会学を講義し、おそらく大学の講義の教本の「心理学」と「倫理学」を出版しています。
続いて明治26(1893)年に京都の私立・大谷尋常中学校、明治28(1895)年後に群馬尋常中学校、明治30(1897)年に仙台の第2高等学校、その翌明治31(1988)年には母校・大学予備門が改編した第1高等学校の校長を歴任しました。
そして同年11月に普通学務局長として文部省に戻ってからは初等・中等教育の整備に尽力し、明治39(1906)年に文部次官に就任すると義務教育を4年から6年間に延長し、旧制高等学校を全国に増設して地域間の教育格差を解消し、さらに奈良高等女子師範学校と東北帝国大学、九州帝国大学を創設するなど明治期の文部行政に辣腕を奮いました。
明治41(1908)年に文部次官を退任すると明治42(1909)年に貴族院議員に勅撰され(華族ではないが勅命で選任される議員)、明治44(191Ⅰ)年に自分が創設を決めた東北帝国大学の初代総長に就任し、帝国大学としては初めて女子学生を受け入れるなどの先進的施策を採りましたが、大正2(1913)年に就任した京都帝国大学では学風刷新のため医科1人、理工科5人、文科1人の計7人の教授を総長の職権で退任させようとしたところその文科の教授が大学の自治運動の指導者だったため教授陣の反発を招き、逆に澤登総長が退任に追い込まれたのです。
退任後は当時、陸軍士官学校の予備校と呼ばれていた成城学校に招聘されますが、文部官僚・帝国大学総長の頃は「官尊民卑」の発想で私立学校を排斥していた態度を一転させ、官の拘束を受けない自由で独創的な私立学校教育を追及するようになり、いつしか大正自由主義教育の主導者と評されるようになりました。その代表例が大正6(1917)年に成城学校に新設した小学校を「新教育の実験校」と位置づけ、「国語教育では読みが先か、書きが先か」など全科目の伝統的な教育方法の効果と外来の手法との比較を実証実験し、多くの成果を上げて現在の学校教育に活かされています。
大正15(1926)年には熱心な佛教徒らしく浄土宗・天台宗・真言宗豊山派と智山派・時宗の連合大学・大正大学の初代学長に就任しましたが、昭和2(1927)年に国際会議出席のための外遊中に悪性の猩紅熱に罹患して帰国後に亡くなりました。遺骸は東京帝国大学に献体され、脳は標本として東京大学医学部に保管されています。
  1. 2022/12/24(土) 14:26:01|
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